踊りながら斬る鬼の歌。
誰かがそう、呟く。
人間同士がぶつかり合うこの時代。場所を選ばずに刃と刃が火花を散らす。
戦の終わるころ、『鬼』はその血流れ煙燻る空間を歩いていた。
(おれは、政宗様のためならば、鬼になる)
笑い鬼
「鬼」
行き成り掛けられた声。鬼、もとい、片倉小十郎は伏せ目がちだった目を開き、 訝しげに辺りを見回した。此処は雑木林だ。目線の先には、自分の所属する軍。 (一等後ろを歩いているのだ)乗っていたはずの馬は、矢を受けてしまったので 養生のため、部下に引き連れさせている。戦も終わり、 話しかけるにしては明らかに全員疲れた表情だし、第一、女など同行させていないはずだ。
気のせいか。
疲れているのかもしれないな。
「なき人、あまた」 天にも地にも死んで嘆くものは多く
「!」
「なきふるす」 帰る場所の無い叫びはもう、聞きなれた
「…どこにいやがる」
「慰む無かれ」 軽んじるな
「……何者だ」
「嘆きぐさ」 この悲嘆
再び聞こえた声はやはり女のものだった。何を言っているのか。 そんなことを考えもしたが、小十郎が一番最初に思ったのは、その声が一体何処から 聞こえているか、だった。見えうる限りの場所を見回してみる。前後、右左、上下。 無意識に立ち止まったので、前の列が遠くなる。 はっ、として進もうとする刹那。背後に気配が生まれた。
「汝の背に、掻い潜めり」お前の背に隠れている
「っ」
なんと、不気味な。
だが不気味と言い切ってしまうには勿体の無いその造形美に、軽く眼を見開いた。 夜の闇のように黒く、川の流れのようにしなやかな髪。 僅かな色味も感じられない、真っ白な肌。長い睫毛。その奥の、真っ赤な瞳。 骨すら細く思える儚げな体の線。そしてその華奢な体を包み込む、純白の 白装束。裸足だというのに、足は全く汚れていない。
小十郎は目の前に現れたその異様な姿に、つい言葉を無くした。 顔を全て覆ってしまうほどに長い前髪がするりと流れて、辛うじて作った隙間から 見えた瞳が、小十郎の眼孔に対しては小さめの瞳と出会う。 その瞬間、赤に囲まれた瞳孔が縦に割れる。同時に、髪でいくらか邪魔された口元が にぃっ、と裂け、白い歯が垣間見えた。 周りの木々が少しも揺れていないのに、その女の髪はゆらゆら揺れていた。
「汝、戦に行きけり」お前は戦に行った
「…なんだ、てめぇは」
「戦に捨てけり、拾いけり」戦で捨て、拾った
「何を言ってやがる」
「鬼にぞなるめり」鬼になってしまったようだな
良く分らないことを言う女だ。小十郎はもともと刻まれていた眉間のしわを更に深くし、 踵を返そうとした。だが、それは叶わないことだと、直ぐに分った。 足が動かないのだ。地面に食いついてしまったかのように、びくともしない。 妙に思って、少し乱暴に動こうとしても、全く反応しない。 混乱していると、目の前からクク、と笑いが聞こえて、我に返った。 視線を戻した先の女は白装束の袂で口元を隠して笑っている。 その姿を視界の中心に、小十郎は怪訝に問う。
「どこぞの乱派だ」
「人の宿世宿世は、いと定め難し 人の前世からの宿命などは、本当に分り難い
なれど魂の散り交うは、現」しかし人が死ぬのは現世だ
「…たま?何の話をしてやがる」
「三途の淵より引き具しにぞ来たり、」あの世から連れに来たのだ、
『 お に が 』あの世の住人が
その三文字が発音された直後に発生した急激な圧力。 有難い事に体で動かないのは足だけだったので、小十郎は膝をついた。 いや、付かざるを得なかった。 普段鍛練等で体験する重圧よりも、ずっと大きなそれが背に掛かっていたのだから。 からがら女のほうを見ると、さっきの微笑みは何処へやら、随分と冷めた無表情で 自分を見下ろしているではないか。 屈辱的な気分になった小十郎はどうにかして起き上がろうとするが、 それに反比例するようにどんどん大きくなる圧力に一瞬、潰れた蟇蛙を想像した。
少しもしないうちに、不思議なぐらいに周囲の音がしない空間だと思っていたのに、耳元で ぼそぼそと人の声の様なものが聞こえだした。誰の声かまで判別は出来ないが、男の声だ。 だが此処まで至近距離で物を言われる(何を言っているかは分らない)のはお世辞でも ありがたくない。潰れないようにと踏ん張る精神の邪魔になる。
怒気をこめて隣を睨んだ。
そして、
「な、にっ……!」
「汝が業なり」お前の業だ
いおおお、ああ、ぎ、ぎぎ、あああ
小十郎のそばで言葉を発していたのは紛れも無く『人間だった』人間だった。 白から黒の色調の配色だけに体を包んだ人間、それは先の戦での敵軍の 甲冑を纏っていた。こちらを覗くように見開かれた瞳は 洞穴のように暗く、 体から零れるおびただしい血液はモノクロの世界に取り込まれて、 真っ黒な液体と化している。
(これは、おれが斬った…)
ぎぎぎぎ、
おごおおおああああ、
ぎいい、ぎぃ、いいいいい
ひぎ、ぐぐう、うぎいああ
存在を理解した瞬間、沢山の声が聞こえ始めた。 かつて何度か森で出会った熊の咆哮なんかよりもずっと凄まじい、 地を這うような低音と、女の断末魔のような甲高い叫びと、 耳に障るような、カラクリのカタカタいう音らがひとつの賛美歌のように 小十郎の鼓膜を揺らした。両手で耳を塞ぎたいのに塞ぐ耳は地面と自分を隔離する唯一の 手段で有るが故にかなわない。
額に脂汗を浮かべ、女を見るが、その女と自分との間には、いや、正しくは自分の周りには 数え切れないほどの灰色の人間達がいた。武器も何も手に持たない彼等は 小十郎に危害を加えることは無いが、小十郎の周りを覚束無さげにふらふらと歩き、 小十郎の前にしゃがみ込み、口やら腹やら、あらゆるところから黒い液体をこぼし、 意味の分らぬ掠れた声を出し続ける。
そして断片的に浮かぶ情景。
子供の笑い顔、若い女の微笑み、老父の寝顔、昼寝する犬
綺麗な花、キラキラ輝く水面、青い空、視界一面の稲穂の海
刀、甲冑、荒れた大地、吹き上がる赤い血潮
ややあって、女が静かに語り始めた。
「汝、己が魂を戦に捨て、鬼になりき お前は戦で己の魂を捨て、鬼となった
鬼は亡き魂を三途の淵に案内すべし 鬼は死んだ魂を三途に案内せねばならない
亡者、苦しとて業となり鬼に入り来」 皆、苦しみ、業に成り果て、鬼に入り込むのだ
「俺が、こいつらの業を背負っているってのか」
「さなり。然有れども」そういうことだ。しかし
汝思い設かざりけむお前には覚悟が無かったようだ
女は詰まらないものでも見るかのような目で小十郎を見ると、亡者たちの群れを掻き分け 小十郎に近寄った。辛うじて腕を立てる小十郎の目の前にしゃがみ込み、 細い手で顎を掴みこみ、汗の伝う顔を拭うと、乱暴に口付ける。
「!」
突然の事に驚愕する小十郎だが、避ける術も、離す術も無い。 だからといって相手の女の舌に合わせるような余裕もなく、大切な呼吸器官を塞いだままで 、此方をじっと見てくる赤い瞳に耐え切れず、目を閉じた。 すると、なにか暖かいものが体の中に入ってきた。 確かに口に入ってきたはずなのに、その物体は食道を通ることは無く そのまま全体に浸透するように、すっと消えてなくなる。 可笑しいほど自然に分った。成る程、これが俺の魂か、と。 それを感じた時、もう唇は離れていた。
だが、続けて。
「っぐ、なに、しやがる…!」
「汝が業、受けん」お前の業は、引き受ける
黒で無い、赤い血が滴る。
小十郎ははっきりとした痛みを首筋に感じた。それもそのはず、女は小十郎の首筋に 深く噛み付いているのだ。首筋だ。致命傷になりかねない。それでも女は躊躇いも無く 歯を食い込ませる。血が地面に斑を作るのを見て、ふと思う。この痛みは、死ぬ痛みよりも ずっと軽いのではないか、と。先程の情景の最後、飛び散った血を思い出した。 奪った全ての命の重みを背負えといわれたら、きっと潰れてしまうだろう。 そう思えるのは、自分の心の中に『人の』魂が還って来たからか。
痛みの波が引いた頃、小十郎の背に掛かっていた重圧はまるで最初から無かったかのように すっかり無くなっていた。立ち上がり、首筋をさする。傷跡らしきものさえ無い。 ちらり、と見た地面にさえ、何も無い。それで前を向いたのだが、そこでまた言葉を失った。 女は凄まじい人数の亡者を背に控えさせていたのだ。勿論その中には、小十郎の 斬った人間達も居たが、他にも、それも沢山、甲冑だけでなく普通の農民も含め た人間達がひっそりと立っていた。小十郎のときの様な騒がしい動きや声は何一つ 見て取れない。そのかわり、皆が落ち着いた表情だった。
これが、鬼。
「見遣れ」見ろ
「…なんだ」
女は、小十郎の後ろを指す。
そこにはもう進んでいったはずの軍が、立ち止まって此方をみていた。
「なう、汝、二度魂な捨てそ。おい、お前はもう二度と魂を捨てるなよ
生魂、常夜に堕ちまじ」 生きた人の魂は常夜に来てはならないのだから
数多の死霊に囲まれ笑う鬼。
次第に薄れ逝く中、その口角から覗く牙は
「再会の縁、なくもがな」再会する縁が無ければよいな
血の紅に塗られて、妖しく光った。