布団に潜り込めば、また軽快にからかう言葉が聞こえてきて、
それでも布団に入ったままでやり過ごそうとすると、隣からぎし、と響く音。
どうやら移動したようだ。そして続けて部屋の空気が静まる。火を消したらしい。
それからがあまりにも静かで、どこかに行ったのかも知れないと思って、そっと顔を出してみると
、少女は窓辺でじっとしていた。白い夜着の端が風に掬われて、偶に翻る。
そういえば、陽の無いところで彼女を見たのは始めてかもしれない。
鬼ごっこに終止符を。
(ほんとのこと)
出会ってからもう、一月ぐらいが経とうとしている。
その間、慶次は毎日のようにこの少女を見てきたが、
それは日中の話だ。民家に止まった時は勿論、その姿をみることは出来ない。
だが宿で同じ部屋に居るときも同じなのだ。
慶次は一度として少女が眠るところを見たことが無かった。
自分とて放浪をする身、疲れていて直ぐに寝入ってしまうのは自覚していた。
だがそれにしても、奇妙である。
一ヶ月の間、大体20日強ぐらいの夜をともにしてきたにも関わらず、
この少女が一体何処で寝ているかも知らない。朝起きたら、そこにいるのだ。
(そういえば、名前も知らない。)
慶次はとっさに身を起こして、その後姿に問いかけた。
「ねぇ、アンタ、名前は?」
「およ、慶ちゃん、起きていたんですか」
「そんな直ぐに眠れやしないよ。それで、名前は?」
振り返った少女はいつもと大して変わらなかった。
慶次は少し落ち着いた心境で、完全に布団から出て胡坐をかく。
少女はその様子に小首を傾げたが、まぁいいか、と言わんばかりにまた、外を見た。
(昼間と違うその無関心な様子がなおさら気になる、とは言えないんだけど)
「んーと、慶ちゃんは、どう呼びたいですか?」
「え?」
「ひとつきの間、『アンタ』という名前だったのだから
このままでも悪くないとも思うんですが…」
「…」
「慶ちゃんがもっと違う名前で呼びたいなら、慶ちゃんが決めてくださいな
私、どんな名前でも慶ちゃんが呼んでくれるなら構いませんよ、えへへ!」
相手をちらりとも見ずに返される返答は、語調からすると全く変わっていないようにも思えるが、
この暗闇の中では、どこまでも無生物に似た静けさを保ったままで、慶次は一瞬息を呑んだ。
アンタ、と呼ばれ続けることに
拗ねているような台詞に聞こえないことも無いが、それはその言の葉が
唯の文面だったら、の話だ。
「俺の名前は?」
「前田慶次ちゃんです、よね?」
「そう、アンタは俺の名前を知ってる。
だったら、アンタの名前も教えてくんないと。」
「…平田慶乃条ちゃん、でしたっけ?あれ、違うかな?
困りました、私、慶ちゃんの名前知りませんよ!」
「いやいや、今更だよ、その修正」
「うぐっ、流石にダメでしたか」
心にも無いような乾いた笑い声(これは昼間ならもっと感情的だったはずだ)に慶次は眉を寄せる。
まとめても居ない髪が、ゆらゆら揺れた。そして、全て静まり返る。向こうを見たままのその顔を、何故か、
本当に何故だか分らないが、その瞬間、此方を向かせたいと思って
、立ち上がり、近寄った。
しかし同じ窓辺まで近寄っても、その貌は外を向いたままだった。
それでも少しだけ、身を引いた辺り、慶次が来たことは分っているようだ。
すこし開いたその空間に腰を下ろして、話しかける。
「アンタはどうして俺と一緒にいるんだい」
「どうしてって、私が居たいから、いるんですよ?
だって、慶ちゃんは良い匂いだし、綺麗な髪だし、その、それから…」
「それから?」
「…あン、やだァ!慶ちゃんたら、私のコトが気になり始めたんですかっ?
慶ちゃんにこんなに質問されたの初めてで、私、ちょっとドキドキしてきました」
「そう、気になり始めちゃったんだよ」
「えっ」
これ以上誤魔化されるわけにもいかない。慶次は話を変えられない様に、肯定的な返事を返した。
とたん、慶次の方を見た少女の目は、全開という言葉をそのまま瞼に表したかのように
大きく見開かれていた。『気になり始めた』。それはこの少女にとって驚くべき言葉だったようだ。
大きな黒曜の瞳が慶次のそれと繋がると、眼孔の中の球体は目線をそらそうと
フルフル震える。それでもそうしきれず、挙動不審な光を持ったままで、じっと見つめ返す。
暫くして少女の口は弧を描き、笑いが零れた。無感情な笑いでない、ちゃんとした笑いが。
「えへへ。慶ちゃんの目、とっても綺麗です」
「な、…に言ってんの」
「月の光が、こう、入ってて…」
華奢な指がやんわりと慶次の目の前を横切っていく。
「中にお星様がいるみたい」
「あのね、私ね」
「慶ちゃんが好きなんです」
ごく自然と出た声は、ごく自然に慶次の耳に吸い込まれた。
毎日のように引っ付いて来ては絶叫する『好き』のサインよりも、
ずっと控えめで消極的な一言。しかしそれは
今、この空間の中では絶対的な響きを持っていた。
声を張り上げるのが罪のようにも思える雰囲気の中、
伏せ目がちな瞼を飾る長い睫毛も、艶やかな黒髪も、無論、しどけない夜着も、
慶次には初めて見たもののように思えた。
整った顔をしているとは思っていたが、こんなにも可愛らしい娘だったのか。
そう思った瞬間、慶次は顔が熱くなるのを感じた。
それを隠したくなってどこかを向こうをしたけれど、失敗した。
少女に明らかな『好意』を意識しだした途端、むず痒いような感覚が前身を走って、
それどころではなくなった。何処かの恋すらしたことの無いような青年のように、
自分の感情に戸惑う。何か返事を返さなくてはならないのに、口はパクパクと鳴るだけだった。
「ふふふ、慶ちゃん、真っ赤になっちゃって!」
「真っ赤になってなんか、」
「私は今、とても幸せな気分ですよっ(キャッ)
だから、慶ちゃん」
「?」
「全部教えてあげます
慶ちゃんが私を嫌いに成らないなら
ぜんぶぜんぶ、ぜぇんぶ、話します」
そして、にこっ、と。
あるところに、ちいさな生き物が居ました。
その生き物は毎日が退屈でした。
だから、ちょっとだけ、旅をしました。
「こんなとこに が居るぞ!」
「ほう、珍しいな、捕まえろ。高く売れる」
それはちいさな生き物が、彼女の仲間全員から絶対に近づいてはいけないと言われていた生き物でした。
しかしちいさな生き物はまだ若く、好奇心が旺盛でしたので、駄目だと言われればやってみたくなり、
近づくなと言われれば近づきたくなってしまうのでした。
そして禁を破ったとき、今まで間近で見たこともなかったその大きな生き物に、そのちいさな生き物は
いとも簡単に、その大きな腕に取り込まれてしまいました。
幾分か高くなった視線からわかりました。どこかに、行ってしまうのだ、と。
こんな事になるのなら、出かけるんじゃあ、なかった。
帰りたい、帰して。苦しい、痛い。
首に紐を掛けられて、どこかの布きれと同じように馬の背に掛けられました。
ばたばた暴れてもちっとも思うようにならなくて、そのうちに息もできなくなって、そのちいさな生き物は
自分を殴りつけたくなりました。無謀なことだ、と、諭してくれた仲間達全員に土下座をして、
ごめんなさい、もういちど私を仲間にして、と言いたくなりました。
だから、必死に声を出しました。此処に居るよ、と。誰かに見つけて欲しくて、
産まれてから一番の声で、沢山叫びました。
そしたら、本当に誰かが来てくれたのです。
その誰かは信じられない位の強さでもって、ちいさな生き物を大きな生き物から救い出し、
首にかかった紐まで切ってくれました。厳密にいえば、その誰かも大きな生き物と同じ種族だったようなのですが、
ちいさな生き物には、彼はまったく違う、まるでお日様のように暖かい何かに感じられました。
彼はちいさな生き物を抱えたまま、歩き始めました。どこかへつれていかれる、とは分かっていても、ちいさな生き物には
もはや暴れる力もありませんでしたし、なにより暴れたい気もしませんでした。だから、ひっそりと目を閉じたのです。
次にちいさな生き物が目を覚ました時、そこは箱の中でした。箱、といっても大きな生き物がよく出たり入ったりしている箱です。
随分と広くて、部屋の隅で横たわっていたちいさな生き物は半身を起き上がらせあたりを見回します。
すると自分が手当てを受けていることに気がつきました。首元に違和感を感じて手で探ってみれば、白くて柔らかい布が巻いてありました。
手元にも同じような布が巻いてあります。丁度よくその部分が痛んでいたので、ちいさな生き物はそれを外さずにじっとしていました。
何故じっとしていたかというと、誰もいなかったからです。疲れていたし、今のところは何も急いで行かなくても、と思った
からです。
するといきなり木と木が擦れ合うような音がしました。見てみると箱の一部分が開いていて、そこに影がありました。
次第に姿がはっきりしてくると、それはちいさな生き物を助けてくれた彼でした。
彼はちいさな生き物が目を覚ましているのをみて大層喜んだ風でした。
彼はほら、とちいさな生き物が見たこともないようなものを差し出してきます。
よく見てみれば、それは柿でした。綺麗に8等分してあるのです。
ちいさな生き物は訝しげにそれを彼とを見比べながらも、結局全部平らげました。
彼は事あるごとにやさしく微笑むので、いつのまにかちいさな生き物も彼に警戒心を持たなくなっていました。
彼の献身的な世話もあって、数日後にはちいさな生き物は完治しました。
そのころにはちいさな生き物と彼は随分仲が良くなっていたのです。しかし、ある日、ちいさな生き物と
彼はお別れをしなければならなくなりました。何故ならちいさな生き物にとって、彼の住む世界は危険すぎたからです。
現に、ちいさな生き物はそれまでに幾度となく、たくさんの大きな生き物に連れて行かれそうになっていました。
だから、お別れをしたのです。深い森の中、ちいさな生き物はじっと、彼の背中を、見えなくなるまでみつめていました。
住む世界が違うのだ、と初めて理解しながら。
「あの時は、本当に寂しかったんですよ」
「そりゃあ……まさか。う、嘘だろ?」
「ううん。本当ですよ、慶ちゃん」
偶然通りかかった人間の格好を真似た。
綺麗な雌が甘い声で呼んだとき、彼の名前を知った。
彼が得体の知れない建物に入ったとき、必死で彼の向かう先を探った。
でもどうしたら良いかわからなくて、いつもついていくことしか出来なかった。
帰るところも、大切なものも、全部置いてきた。だから、何処にもいけなかった。
この体と、名前だけは、持ってきた、けれど。
「は、慶ちゃんに恩返ししたかったんです」
初めて人間に名乗ったその名前は、存外人間と似ているから、少しは覚えてもらえるだろうか、という
期待で、ほんの少しだけ力が篭った。だけれどまだ、自分を明かすのはとても怖くて。
人間は人間に在らざる者を嫌うと聞いた。嫌われたくない。しかし、もう、限界だ。
明かさざるを得ない。それだけ沢山の時を、彼に割いてもらったのだから。
慶次はひと月ぐらい前の事を思い出していた。今考えれば、この少女が
現れたのは、その頃だった。随分と元気で、毎日どこからとなくやって来ては、自分に話しかけ、笑いかける。
慣れていくにつれて、五月蝿くて、鬱陶しくなった時もあった。本気で睨みつけてしまった時もあった。
けれど、一度も何処かに行ったらいいと思ったことは無かった。自分でも不思議な位に、その騒がしさとの
共存が当たり前になっていた。夜、民家に止まった時、どうしてあんなに落ち着かなかったのか。
本当は心配だったのだ。昼間、彼女と話す時、どうしてあそこまで粗野な口利きをしたのか。
気を許していたのだ、という娘に。
か細い声に、慶次の思考は中断される。
「でももう十二分に分りました。
私では慶ちゃんに恩を返すどころか、苦労を掛けてしまう」
「俺は…、俺は、迷惑だなんて掛けられた覚えは無いんだけどね」
「それじゃあ、きっとこれから、慶ちゃんを困らせてしまいますよ」
にこっ、と微笑む笑顔だけは変わらない。
、と名乗った少女はまた外をみる。今度は慶次もつられて外を見た。
なるほど、理解できる。その景観の周囲に広がるのは、夜中に月光を浴びて
深緑に光る森だった。還るというのか。慶次の胸に不安がよぎる。しかし彼自身、それがどうして
不安なのか、分らなかった。分らないのに、つい、体が動いた。
自分の無骨な手の平が、、という名の少女の肩に触れる。
カッと自分の頬が熱くなる気がした(まるで本当に初心に人を恋しているように)が、
この際どうでも良くて、その体を両腕の中に押さえ込む。あまりの驚きにだろうか、微動だにしない相手の
肩口に顔を埋めて、それから、何か話そうと思う。でも出てくる言葉はどうでもいいことばかりで、
どうにも言い出しづらい。やっと出た言葉が、これだった。
「俺、ものすごい寒がりでさ」
「そんで、その、最近は寒いから」
「あったかいのが、凄く恋しいんだよね」
自分でも何が言いたいのか分らない。でも言ってしまった以上、止めるわけにもいかない。
ふと、肩の辺りがもごもごと動くのでそちらをみると、大きな瞳と出合った。
だけれどその瞳は困惑に濁って、奥のほうに見える両手は、相手に触れまいとしているのか、
己の服を強く掴んでいるようだった。どうしてだろうか、その(初めて目にした)ひかえめな姿を見た瞬間、
言葉が脳に降って湧いた。
「俺が寒いときは、傍に居てくれないかい」
アンタは、は、暖かいから。
一瞬瞳孔の縮小した瞳は、ゆっくりと瞬きをする。
そして微かにわななく口元は次第に上弦を描き、
控えめな頷きは、慶次の懐に、逃げ込んだ。
その朝は霜が降りていて、随分寒い朝だった。
畑から、路面から、何から何まで、白いベールを被ったように
キラキラ光る。そこに響く蹄の音。立派な体躯の馬が駆けていく。
その馬に乗る派手な服の男。手綱を片手で操る猛者だ。もう片方の手は、
大切そうに何かを抱えている。
「ほら、確り掴まってなよ、!」
「ケン!ケン!」
そこには、美しい金色の毛皮を靡かせる狐、一匹。
「今日は何処に行こうか?」
「ケン!」
「、意地悪してないで返事ぐらいしとくれよ」
「えへへ!あのね慶ちゃん、私、京に行ってみたいです!」
「おほっ、そうかいそうかい、も祭りに興味が有るってか!」
「お神輿を担ぐ慶ちゃんの褌姿の方が興味をそそられますけどね!」
「おいおい、やめなって!惚れちまっても知らないよ?」
「やですよ!もう、慶ちゃんたらっ」
冷え性は、治りそうに無い。