そんなに朝早く起きるのは好きじゃない。
どんな場所でも、自分に合った時間に起きて、ちょっと体を動かした後に松風にでも乗って散歩。
そんで、その途中途中で出会う人間と他愛も無い話をする。
跳ねるほど楽しいことでもないけど、こう、此処ンとこが暖かくなるような気がすンだよね。
でもこの散歩、最近はちょっとワケが違う。厄介なのがくっついてきちまったんだよ。
宿を変えても、何処に行っても必ず付いてくるのが。寝てても起きてても容赦ないのが。
「けーちゃーん!」
そら、今日も来た。
鬼ごっこに終止符を。
(いつものこと)
一見して、小柄な少女。
普通の農民、それか商人の娘のような見てくれをしたその娘は、進行方向に目標物が有ると確認するや
可愛らしい声を上げた。走ったにしてはあまり上気していない頬を、今度は喜びの朱に染め、
ぱっちりと見開かれた黒曜石を思わせる瞳は、朝日を受けた水面のようにキラキラ光る。
それと正反対に『発見』された張本人、前田慶次は顔を真っ青にした。
「慶ちゃん!こんなとこに居たのですか!
探しましたよ、気が付いたら、あの宿には居ないんだもの!」
「(うーわ来た!)探してくれなんて頼んでないよっ」
「まーたまた、言ってくれちゃいます!照れ屋さん!(てれっ)
それじゃあこれァなんなんでしょうかねー?」
松風に乗る慶次を見上げながら、ふと少女は服の中に手を突っ込んだ。
いくらなんでも、れっきとした娘だ。慶次は馬上からだと絶対に見えてしまう服の下を見ないように、
顔を背ける。だが、それを見た少女から『初心なんですねぇ、可愛いですねぇ』といわれて、
ついムキになって『アンタに見せる初心なんてのァ、持ち合わせて無いね』と顔を戻すと、
大っぴらになった少女の女らしい起伏はサラシで覆われていた。
からかわれたらしい。少女に咎める様な視線を投げると、
少女は示し合わせたように慶次にウインクをプレゼントした。
そしてその手に掴まれていたもの。
「紐?…そりゃあ、俺の」
「慶ちゃんたら、こんなもの放っていくだなんて、困りますよ!
もう!ね!こんな素敵な…!ああもう、貰っちゃいますからね!」
「貰うも何も、俺、それ、昨日の宿に捨てたんだけど…」
昨夜の旅籠出の事。風呂上りに髪を結っていた時、紐が切れてしまったのだ。
だからそこの女将に頼んで髪結いの紐を貰った。
そして切れてしまった分はちゃんと処分したはずだったのだが…。
怪訝な目を向けても目の前の少女は喋ってくれなさそうだ。
喋らない代わりに紐に接吻する。それだけでなく、うっとりと。
「慶ちゃんの髪の、いー匂いがする!」
「やめてくんない、そういう発言!」
「なんでですか!」
「変態みたいに聞こえっからだよ!」
「変態のなにが悪いんですか!」
「認めちゃったよこの子!」
本当に妙な娘だ、と慶次は頭を抱えたい気持ちになった。
現に今、変態だと言われても傷ついた様子もない(普通の女の子だったら
すごく傷ついてるよ)(俺もちょっと言いすぎたかなって思った)し、
寧ろ白い頬を紅潮させてさえいる。見た目だけなら充分に可愛らしいのに、残念なことに
性格が可笑しいときた。
「よ、いしょ」
「ちょっと、何してンだい」
「慶ちゃんと相乗りしたいです」(ポッ)
「はァァ!?やめてよ、ほら、降りた降りた!」
「乗りかかった、ふ、船でしょっ、ちょ、押さないで、おさ、ぎゃん!」
「少なくとも『ぎゃん』なんて言う子は乗せないよ」
「非道い!慶ちゃん、非道いです!」
「さーて、行くとするか。松風」
「え?どこいくんですか、慶ちゃん」
「アンタにゃ教えないよ」
後ろから来る非難がましい声を聞きながら、慶次は松風の横腹を足の腹で突く。
とたんに小さくなる、自分を呼ぶ声を聞きながら、疲れた、と息を吐いた。
最近はまだ寒いにも関わらず、春が近づいているのか、花目も芽吹きつつある。花売りも居るだろうから、買って、
可愛い子に渡して、茶屋にでも洒落込もう、と思いながら。
「………で、なんで?」
「え?なにがですか?」
「なんで、いんの?」
「えへへへへ、えへへ!」
「……」
日も沈んだ頃、放蕩中の前田家の次男坊も旅籠に部屋を取った。
たまには、けしてイヤらしい意味でなく、知り合った少女の家
(勿論、概して家族も居る)に一晩世話になることも有るのだが、
最近その種のコトもめっきりなくなっていた。
だが、それ自体は慶次がそうしようとおもって無くした訳ではなく、
唯単に今の時分が年度の初めで忙しいからだろう。
だから最近は日中にいろいろやって稼いだ金を夜越しの金にしないように、という意味も含めて
全て宿につぎ込むわけだが。
また、いる。
慶次は思い切り吐こうと思って吸い込んだ呼気さえ、脱力のあまり消失させながら、
目の前の事象と真剣に、今日こそ真剣に向き合おうと思った。
だが、しゃきっ、として、少女を正面に捕らえても、目が合った瞬間だらしない微笑を向けられては
真剣に話をしようとする気も薄れるというもの。
目の前の少女は姿勢よく正座したままで、入り口の直ぐ前に居た。
「行き成りですが慶ちゃん、ぴょんってして、ぎゅってしてもいいですか!」
「アンタ鼻血出てるよ」
「だって、嬉しいんですから、仕方が無いでしょう」(ハァハァ)
「(…)一応、拭いときなよ。ほら」
「うひひ、有難うございます…ほほお、慶ちゃんの手はすべっすべですねっ
って、ああんどうしよう、私今慶ちゃんの手を触ってしまいました!」(キャッ)
「……」
「ふぎゃっ」
思い切り手を引いた。
この少女、慶次が民家に泊まる場合には姿を見せないのだが、
いざ旅籠に、となると、必ず通された先の部屋に居る。
女将のいらない計らいかと思って、どの宿でも真相を聞きだそうとするのだが、
誰一人として、その様な少女は見ていない、と証言するのだ。
不思議だ。どうして誰にも気付かれない?(ここまで騒がしい子なのに)
義姉がさしむけた刺客ならば、もうとっくの昔に伝令やらなんやらで
ご本人が登場しているはずだが、それもない。
だが、本当の、唯の娘なら、いや、一般人なら、こんな事は起こらないはずだ。
少なくとも、宿側として、誰かが泊まっている部屋に客を案内したりはしない。
「そうそう慶ちゃん、もうじきご飯が運ばれてきますよ!」
「へぇ、そうなの」
「多分ですけどね!でも私はもう食べちゃったから、慶ちゃんの分ですけどね」
「ふぅん。ところでアンタ、いつから此処にいたんだい?」
「そーんなことよりも、慶ちゃん!私、忘れていました、ごめんなさい」
「忘れてたって、何を?」
「おかえりなさい!お食事がいいですか?お風呂がいいですか?
そのォ、それとも、わたs――」
「よーし、ひとっ風呂浴びてくるか!」
「ああぁ慶ちゃん最後まで聞いてくださいよー!
非道いですよ、びえええええ!」
「は、はっ」
部屋から出て付いてくるような事はせず、部屋の襖からちょろっと顔を
覗かせて、橙の花が咲く袂で目を隠しながら、泣きまねをするその声に、少しだけ笑った。
暫く風呂に入って、部屋で食事を取るのは気分的に嫌だったので客間で食事をとって
(結構な時間だったので、そんなに他の人間も居なかった)部屋に着くと、入れ替わりに
宿勤めの娘が出てくるところだった。布団を敷いてくれていたらしい。有難う、と感謝の意を述べると聞こえた、
控えめな謙遜と、染まった頬がなんとも可愛らしいと思う。その様とまるで正反対なのが、
この部屋の奥にいるのが信じられない。脱力も半ばに部屋に入る。
勿論、そこに少女は居た。
但し布団に入り込んで、顔だけを出している状態だが。
「おかえりなさい、慶ちゃん!
わたしは1人でさみしかったので、もう寝ちゃおうかと思いましたよ!
この布団の、ここらへんで眠ったら、慶ちゃんがお隣に入りやすいですよね?」
「そりゃあ悪かったねー。寝ててくれてよかったのに」
「もう、やだ!謝ったらいけませんよ、慶ちゃんは亭主関白じゃないとっ」
「つーか、アンタの亭主になった覚えも無いからさ」
「あっ!ごめんなさい、恋仲でしたか!」(ひゃー)
「…」
(と、言ってもなぁ…)
堪らなくなって頭を掻いた慶次。自分の出会ってきた娘というのは殆ど全員(色町の娘を除いてだが)
ずっと謙虚で恥ずかしがりやだった。勿論自分から恋仲だの、亭主だの、そんなことを公言したりしないし、
まさかこんな風に、一緒の部屋で寝ようだなんて、考えやしないだろう。
顔は良いのだから、もっと危機感を持ったほうがいい。そう言おうとしたが、結局は旨い具合に
はぐらかされてしまうのだろうなと思って、口を噤んだ。
しかし、慶次は恋仲とか亭主とか、そんなことよりもまず、ある事が気になった。
確かに少女の夜着姿が毎回の如くよく似合っていて、どこか色っぽいのも少し気になっては居るが、
それよりもまず。
「布団、なんで一組だけ?」
「一組で良いですって、言ったんです」
「そっか、じゃあ」
「はい!一緒に寝まし、」
「アンタは布団で寝なよ。俺は雑魚寝でもいいからさ」
「えぇぇぇぇっ!」
てっきり、一緒に眠れないから叫んだのかと思った、次の瞬間。
少女は、驚くほどの俊敏さで布団から出て、その傍に仁王立ちになった。
そして唖然とする慶次の手をきゅ、と握り、布団に引っ張りながら、
はっきりとした口調で言い切る。
「ダメです。これは慶ちゃんの布団です!」
「俺の布団、とか言うわりにはアンタ寝てたじゃん」
「そんなの出来心です!さ、寝てください、慶ちゃん」
「そしたら、布団をもう一組もら、」
「要りません。ほら、早く布団に入る!」
少女は僅かに居丈高な口調になる。
どうしてここまで自分を布団で寝させることに執着するのか、慶次には全く分らなかったが、
兎に角は少女の剣幕に負けて(そう眠たくも無かったが)布団に入った。とたんに少女はにっこりと微笑み、
いつものようにうへへ、とかいう奇妙な声を出すことも無く、慶次の枕元に正座する。
見上げた先の少女は、自分でなくどこか遠くを見ているようだ。少女の雰囲気よりもずっと女らしい面が
無表情に呆ける様は、
(悪くない、んだよなぁ)
「いま、悪くないとか思いませんでした?」
「はっ?」
「うへへ、慶ちゃん。私、嬉しいですよっ」
「勘違いで嬉しくなってちゃ世話ァないね」
「強がっちゃって、可愛いですよ、慶ちゃん!」
「あーもう、寝る!寝ればいんだろ!」
まさか図星だなんていえない。
そのかわり、布団に頭から包まった。