北条が、落ちた。
あの長年続いた誇り高き一族さえ、この戦乱の中では枯葉がひらり、ひらりと落ちていくが如くして
地に伏していくようだ。は、窓越しに庭の木から葉が落ちるのを見ながら、ふとそう思った。
そして続けざまに思う。水をあげないと。そういえば最近忙しくて、庭に構っていられなかった。
「おや」
そうして出でた家の縁側には、花束。
ほのかな香りを放つ色とりどりの花が、を待っていたかのように此方を向いて、置かれていた。
は微かな笑みを浮べる。何、これが最初ではないのだから、驚かないのも無理は無いが。
「また、来てくれていたんだね」
「今日も綺麗な花ですね」
「そうだね」
が部屋に飾りあぐねた先ほどの花を職場にもって行き飾っていると、
後ろから部下が話しかけてきた。綺麗だ、と。はつい、頬が緩んでしまうのを感じた。
しかしこの部下、どうやら花に興味があるらしい。
この紫のは何という花なのですか?と聞かれたけれど、は実際、それを
摘みに行った張本人では無いし、(薬草であれば話は別だが)花の名はからっきしだったので、
曖昧にしか返事が出来ない。それでも満足したのだろうか、の部下は満足そうに
微笑んで、そのまま廊下を渡っていった。
「花の名前も少し勉強すべきかもしれないね」
素敵な贈り物をくれる、誰かのためにも。
「誰なんだろう」
いや、1人だけ思いつくヒトが居る。
でもその人は1度(一方的にならば、二度)会ったっきり、
姿を見ては居ない。でも彼になら出来なくはない。
は乱派には何でもできやがる、と上司が言っていたのを思い出した。
確か三つになったり、するんだと。他人に化けたり、するんだと。
それなら一般人の私に見つからないように花を置くなど、簡単な話ではないか。
いつの間にやら、あの乱派が花を届けてくれていたら、と思う自分に疑問を持つことはなかった。
寧ろあの乱派だったら、いいと思う。何故だろう、なんでだろう…
「」
「、あ」
呆けていたのだろう。だからはその声の主が顔を一杯に近づけてくるまで
その存在に気が付かなかった。だがそれに気が付いてもは小さく声を上げるのみだ。
元来あまり大仰に驚いたりする性質ではない。偶に出会う城の中の官僚にもその反応の薄さで
不快な思いをさせたこともあるが、は全く気にしていない。…というか、それに反応できないのは
その官僚云々の方々の話が興味深くないからだ、と思っている。
「片倉様」
「どうした、気分でも悪いか」
「いいえ、そんなことは無いですよ
唯、どうしたら綺麗に活けられるかを悩んでいました」
嘘だ。
だが小十郎は気にすることも無く、こうすりゃあいいんじゃねえか、と
幾らか花の場所を変えての反応を見た。
は正直に驚いた。武術だけに秀でているかと思って居たけれど、なるほど
こういう何でもそれなりに出来る人間というものは存在するらしい。
幾ら先刻のそれが嘘であっても、随分と雰囲気の変わった花たちに、はいつもよりずっと
微笑んで、感謝の意を述べた。
「こんな綺麗な活け方、私にはとても真似できません
片倉様は素晴しいお方ですね。見習うところばかりです」
「いや、花も俺みたいな手に触れられるのは嫌だろう
お前が触れているほうが、よっぽど良い。絵にもなる」
唯の偶然だ、と幾分か照れた様子で言う上司を見て、は尚の事笑みを深くした。
鬼だ何だと言われていたこの男性にも人らしい部分は沢山残っている。
近くに居れば偶にそれが垣間見えるのだか、はその瞬間が好きだった。
「何を笑ってやがんだ、」
「笑っているのは、嬉しいからですよ」
「…。喜んでいるところ悪いんだがな、今日は少し遅くなりそうだ」
「私がですか?」
「お前は此処の出納もしているだろう」
「はい。恐れ多くも、ですが」
今川の落ちを皮切りに動き出した戦国。奥州伊達軍も最近は小さな戦をしていた。
それまでは駆り出されはしなかったが、今回は少し規模が大きいらしい。
やはり資金の問題も出てくるのだろう、出納役を買って出ていたも
今日の軍議に出ることになったらしいのだ。少し申し訳なさそうに言う小十郎に、は
構いませんよ、と単調に返した。家は意外と城に近いところにあるし、誰かと約束をしたというわけでもない。
遅くなっても、同居人はもう少し郷里にいるそうだから、家にも未練は無い。
つまり全く困ることは無いのだ。だが小十郎はを遅くに返すことが気に入らないらしく、
送っていこう、と何度も持ちかけたけれど、は笑顔で断った。
(そこまでしていただくわけにもいかない)
「ところで」
「はい、何か?」
「その花はお前が摘んで来てるのか」
「いいえ」
「そうか」
小十郎はそれ以上詮索しなかった。
が花を生け終わったのを見て、いつものようにその頭を一撫でした。それに対してがいつものように
何かぶつぶつ言うと、気風良く笑い、去っていく。はその後姿を見ながら髪に手をやった。
いつものようにボサボサだ。しかし零れた溜息は本当に迷惑だと思う心から出たものではなかった。
「有難く思わないといけない」
あの素晴しい上司。
彼が私を拾ってくれたのだから。
「疲れたなぁ、緊張した」
案の定、家に帰るのは深夜になった。
軍議が終わったとたん、自分の殿はどこへやらの元までやってきた小十郎は、
夜も遅いのだから泊まっていくように薦める。それでもは断った。基本的に、城の中は好きではない。
そこら辺に見えるなれない造りやら装飾品やら、とっても気が張る。一生好きにはなれないだろうと思った。
ふと、月を見て思い出す。あの日も職務に取り掛かるのが遅くなった所為で、随分遅くまで
城に残させて貰っていた。勝手に帰ったから、今日みたいに泊まるようには言われなかったのだが。
今日と同じくらいに遅くなったあの日、あの何でもない一日の締めくくりに、あの人気の無い家の中で彼に出会ったのだ。
「筆を届けてくれた」
意味の無い独り言のように、夜中の冷えた空気に声を浸透させたあと、は荷物の中にあった一本の筆をみた。
今度会えたのなら聞いてみたい。花をくれたのは貴方ですか、と。返事は無いのかもれないけれど、
いや、絶対的に無い確率のほうが高いだろうけど、それでも良いや、とは思った。
とにかくもう一度同じ空間に身を置いてみたい。頬に触れただけだった手に、触れて見たい。
傷は治ったのか、確かめたい。幾らでも出てくる理由に、は口端を上げる。
「え」
だが一瞬にして視界は茶けた白に移り変わった。
集中すると周りが見えなくなるから、それが不安だ、と小十郎だけではない、部下にも、
更には城主の伊達政宗公にさえも言われていただが、それを治そうと思ったことは無かった。
朝起きるのが苦手な人が居るように、運動が出来ない人が居るように、
考え込むと周りが見えなくなるのは治し様の無い、それこそ不治の病のようなものだと思うのだ。
だが、今日ばかりはこれを悔やんだ。
なぜなら、上司の心配していたであろう事が起こったからだ。
(今日はとっても、疲れる…)
麻袋の匂いに包まれながらそう思う。
だが鳩尾に入った拳によって、すぐに思考回路は遮断された。
荒い息音に目が覚めた。次第にハッキリしてくる頭の中で、脳で、三半規管で、自分は今寝かされて居るのだ、
と気が付く。それでもまだ何が起きているのかはわからなかった。今の時点で分ったのは、自分がとても暗い部屋の中に
いるということ、それから自分の上に人が乗っているということ。
(ひ、と――?)
薄く開いた瞳に相手も気が付いたのだろう、相手が体を上げた其処には見慣れない顔がくっついていた。
見たことも無い。普段城に居るなら仕方ないかもしれないが。
それでもには直ぐに分った。この、上にいるのは素浪人であると。
清潔感のせの字も無いような着物は、今やだらしなく開かれていた。
そこにひとつ、ふたつ、となく付着したあのどす黒いのは何だろうか、血だろうか。
恐らくそうだろう。その男の胸板や肩口には大きな刀傷が幾らも入り込んでいた。
黒い染みの全てが他人の傷口からのものとは到底思えないけれど、その出で立ちだけで充分に
強さが分るようだった。
「お前も運がねえなぁ、娘」
「何、を、するつもりで」
「ちょうど、人を斬ってきたばかりだ」
男は答えにもならないような言葉と下卑た笑いとをに付き返すと、また覆いかぶさってきた。
全く遠慮なく体重をかけてくるものだから、は呼吸をするので精一杯だった。
完全に露出された男の肩に手をかけて、どいてください、と押し返したり、足をばたつかせてみたり
色々するけれど、男はそんな些細な抵抗は全く気にしない様子だ。
いや、寧ろ、更に加虐心を掻き立てられたのだろうか。
の着物の帯紐を体重をかけたまま器用に抜き取り、それで真っ白な両手首を
折れてしまうんじゃないかというぐらいに締め上げた。
「いた、い…」
「チ、暴れるな!この馬鹿女」
「ッ!……放して、くださ」
「喋る、な!」
力任せに腕を繰り出す。は避ける事も出来ずにそれを身に受ける。
往復で打たれた頬が赤くなって熱を持っていくのを感じた。
これ以上泣き叫ぶと、若しかしたら、あの壁際に掛かっている刀で斬られるかもしれない。
腕も縛られて、もう逃げられない……は、助けを呼びたくなる喉を一生懸命に押さえ込んだ。
が何も言わなくなったのを確認すると、男はの着物の縁に手を掛け、思い切り開いた。
その時両腕に阻まれて上手く開かないのに腹を立てた男はから退くと、壁の刀に手を掛けた。
そして緩慢な動作で刃を露出させると、縛り上げたの服の袖に刃をするすると入れていく。
刃のヒヤリとする感触に、の瞳孔が一瞬小さくなる。その反応を楽しむように、男は
とてもゆっくりと刃を進めていった。途中、チクリとした。きっと刃が肌に触れたに違いない。
だがそれで痛がる様子を見せたものなら、今度こそ斬られかねない。は全身の震えを、
進み来る刃の所為だと見せることに必死になった。
「あ、あ、…」
「へへへ…真っ白な肌してやがるぜ」
びり、びりびり、と耳に痛い音が響く。
暫くもしないうちにの着物は元の姿も見えないくらいになってしまった。
男は申し分程度になった上半身の服を仕上げとばかりに引きちぎると、大分上がった息で
露になったの肌に口をつける。不快以外の何者でもない感覚がぬるり、と両胸の間を這った。
堪らずは顔を背ける。
同時にごつごつした手が無遠慮に腿の辺りをなぞる。
は縛られた手を必死に動かしたけれど、
もはや男はそれを気にしない。一々激情しない代わりに、
全く気にしない。状態がさらに悪くなったことにの血の気は一気に引いていく。
晒された上半身が風を受けて、体温が逃げていく。
周りを見てみると、何処かの廃屋の様だ。雑に組み立てられた外に見える景色は街のそれではなかった。
(寒い…)
ぴぴ、ぴ、
何か生ぬるいものが、だが、それでも男の舌のようにざらついた生ぬるさではない、しっとりと肌に
食いつくような生ぬるさが、の胸元にへばりついた。へばりついた後、それは
むず痒くもゆっくりと垂れ下がる。なんだろう、と思ったが胸元を見たとき、最初に目に飛び込んできたのは
『赤色』だった。
「何が、」
起こったんだ、と続けたかったのに、からからになったの喉はそれ以上を許してはくれなかった。
だが目に入る事実は確実。単刀直入に言えば、針が刺さっていた。それも裁縫に使うような小さなやつではない。
もっと大きな、それでいて太い、針が、男の首を貫通していた。喉を貫いたその先から静かに滴る血液。
は呆然としたまま、赤いのはこれだったのか、と思った。
そしてそう思った瞬間、その男の体は軽々との上から飛びのき、張りぼての様に雑なこの廃屋の壁に衝突した。
あまりの衝撃にその部分の壁が軋む。はその様を第三者の目で見つめながら、
あのまま壁を貫通されていたのなら、穴が開いて風が入ってきっと寒かっただろう、と、
要らない(それもとびきり場違いな)安堵を体験していた。
すると次は両腕が随分と楽になったのでふと上を見ると、帯紐が綺麗に切れていた。
だがやはり強く巻かれすぎたのか、それともが無理に暴れすぎたのか、そこには僅かに血が滲んでいた。
そして戻した目線、その正面には。
(会、え、た)
「やあ、いつかの」
「……」
やはりその『いつかの』彼は何も話しはしなかった。
へらりと笑って見せたは、本人も呆れるほどにセミヌードなのだが、
何も隠せるものが無い。周りを見回したが何もなくて、仕方なく両足を縮めた。
正面にいる乱派は口を真一文字に結んだままで、何も言わない行動しない
(小十郎様ならまず私を叱ったろう)のだから、
上半身裸のは一体如何したら良いのかわからなくなって
顔を埋めた。そのまま話す。くぐもっていても、彼には聞こえるだろうと思った。
「君は、助けてくれたのかい」
「………」
「いや、いいんだよ。私が助けてもらったと思っているだけなんだからね。
ありがとう、でも、ただ、すこしだけ、ほんの少しだけ、恥ずかしいな」
「…」
「君と再会する時はね、もっとまともな格好で再会したかったのだけど…
どうやら今日の運がとても悪かったらしくって」
ぱさっ
自分でも何を言っているのかわからなくなってきて、ふと顔を上げたとき、
同時に膝小僧の辺りに何かが触れる感触と音がした。
そして直後、目の前には満開の花々が陣取っていた。
は、はっとして、その花々を見つめた。見覚えがあったのだ。
度々届けられる……それも季節感を悟るかのように完璧な選択で、
見たことも無いような美しい花達も居た、それ。
「花だ」
「……」
「君だったんだね、やっぱり」
美しい花の収束した先には、黒い装束がつながっていた。
本人の表情は見ることは叶わなかったが、いつも抜き身にされていた刀が今は仕舞われていること、
それから、彼の瞳を覆う額宛が此方を向いていること、それらには満足した。
真っ直ぐに私を見てくれている。何故だか分らないが、胸の奥から暖かさが溢れるような感触を感じた。
花を確りと受け取ると、その手は離れていった。性別は男だろう。
篭手越しにも分る男らしい骨ばった手が、どこか今朝の小十郎を思い浮かべさせる
ようだ。武人の(乱派もその輪に入るだろう)手というのは通じてこういうものなのかもしれない。
は色とりどりの花を見つめながら感謝を述べる。
「いつも、いつも、ありがとう
とっても嬉しい。大切にしているよ」
「………」
「ああ、君には言い足りないぐらいだね
ありがとう、ありがとう。もう1つ、ありがとう」
「…」
「おや」
ふと、花を見つめるのを止めて、じっくりとその顔を見てみると、最初の無表情よりも(本当に微々たる変化だが)
口元が強張っていることに気が付いた。それでも下がった腕はそのままに、真っ直ぐとこちらを見てくる
その乱派。は声を立てて笑いたい気持ちだったが、それを抑えた。
その代わり、花を抱締め、見えない目を覗くように問いかける。
「もっと言ったほうがいい?」
とたんに押し付けられるかのようにして渡された毛布(どこにあったのかは、全く分らない)
(でもこのボロ屋の中にはこんな綺麗なものは無いだろう)を受け取りながら、は今度こそ
小さく声を出して笑った。
「もうここらでいいよ」
「…」
「…聞いているのかい、もう、大丈夫だよ、歩けるよ」
「……」
諦めるしかないか、と思った。
あの後有無を言わさずを抱え上げた乱派は、どこにいくのか、と聞くにろくな返事もしないで
ボロ屋を出、高く飛び上がった。はあまりの驚きに体を巻いていた毛布を強く握った。
彼はその様子を見たのかもしれない。隠密だどうだといわれる割にはゆっくりと、木々を飛び移り始めた。
だからも徐々に怯えることはなくなり、控えめにだが、その腕に身を任せた。
そして見上げた先の額宛は一瞬だけ此方をみて、また真っ直ぐ進行方向を見つめた。
そしてそのまま、の良く知る街道までやってきたというわけだ。
ここからなら帰り道も良く分っているし、いや、確かに少し歩かなければならないが、
としてはこれ以上迷惑を掛けるわけにも行かないし、足に何かされたわけではないのだから
、その場で降ろして欲しいというのが本音で。それを訴えたけれど、を抱えたままの彼は
どうやっても両腕を降ろしてはくれない。
仕方なく諦めて力を抜くと、頬に何気なく触れた胸板が思ったよりもしっかりしていて、
一瞬で顔が上気するのが分った。何分、男だらけの職場に居るといえ、ここまで密着したことは無い。
顔が赤いのはあの浪人に打たれた頬の赤みのお陰で、分らなかったのが唯一の救いだった。
それでも居た堪れなくなって、口を開く。
「送ってくれるのかい」
「…」
「家は…、そうか、知っているんだね」
「…」
乱派だから、かもしれないが、大通りは歩かない。
彼はを抱えたままで、寝静まった家々の屋根を、音を立てることもなく進んでいく。
はその素晴しいまでの静けさに感服しながら、すぐとなりに見える月を眺めていた。
最初に出会ったときは、満月に近かった。それがもう、美しい曲線美を持った三日月になっていた。
だからはっきりと時が流れているのは実感できたのに、今、この瞬間だけは、時が止まったかのような気分になった。
「ろまんちっくだね」
「……」
伊達軍はほんの少しだが、異国語が分る。いや、分るようになる。
理由は至極簡単。城主がいつも、生活の中で異国語をつかうからだ。
それはが花を活けていたときも同様で、偶然通りかかった城主は
にその言葉と意味を教えてくれた。
その気紛れにお礼を言ったのも随分昔の事だったが、物覚えのいいは
今の今までずっと、覚えていたのだ。
聞きなれない言葉が気になったのか、立ち止まり、此方を見る乱派の彼。
はその視線に気付いて、複雑な影を作る額宛を見つめた。
「嬉しいな。やっと会えた」
見上げた先の彼の少し明るい色の髪。月光に照らされてもやはり、綺麗に見えた。
懐かぬ猫は
月を見上げ何を思う(2)
(もっとふれていたいとおもう、おねがい、ふれていて)
(たとえそれを、かれがいとうても)