丁度もう一ヶ月ぐらい前の事だ。

城に仕事をしに行くときにいつも使う小路 を通っていると、直ぐ傍でちいさな音がした。 けれど振り返った先にはなにもなくて、は不審に思った。 それでも気になった。そこに地面の緑とは全然違う、真っ赤な液体がテンテンと落ちていたからだ。


(かわいそうに、一体何があったんだろうか)


元々城使えしてはいるもののは武芸の方は全くといっていいほどに出来なかったし 自分でもしようとは思わなかった。親にも優しすぎるといわれた。 昨日、家の中に入ってきた蛾1匹さえ殺せずに、同居している人間に処分を頼んだぐらいだ。 可愛そうに。いつもそんな考えが浮かんでしまう。この生き物にもなにか大切なものがあったろうに。 必死に生きていただろうに。

それを語ると自分の上司は牛蒡を片手に溜息をつき、だからお前は文官向きなんだ、仕方ねぇ、そんな ヤツもこの戦国には必要なんだ、気を落とすなよ、と菜園の手入れを再開した後、ぽつぽつと返してくれた。 文官でもそれなりの地位に居たは漠然とその声を聞いていた。 生きていくのに必死なのは、虫や野菜だけじゃない、私も、町の人も一緒なんだ。 それならこうやって仕事を頑張ることは当然の事だとも思った。


「今日は、仕事に行こう」


は手当てをしたいという願望と放っていくという罪悪感らをなぎ払うように 顔を振るとその茂みを見るのを諦めて歩を進めた。そうだ、私は今から仕事に行かなければならないんだから、 沢山の部下がまっているんだから、昨日、し終えられなかった仕事が余っているんだから、私も一生懸命に 働いて、生きていかなければ成らないんだから…

息を切らしたは森の新鮮な空気を吸い込んで、大きく吐いた。
いつの間にか、元の場所に戻っていた。


「今日は、少しだけ遅れよう」

















進んだ先には小さな湖があった。
綺麗な朝日を反射した湖面はキラキラ光って眩しく、は見ていられなくなって 額に手を当てた。これで少しはましに見える。そして少しましに見えてくると、 対岸の方に小さな人影が見えた。どうも町人らしくない、着物でないからだ。 それでも一応は人だろう。手と足がそれぞれ二本ずつ、妙な髪形のようだが頭らしきものもあるし、 なにより動いている。肉眼だから、少しではあるが。


「怪我をしているみたいだ」


湖畔でその人物は装束から肩だけを露出させていた。 文官で一日中室内に篭っているにしては目のいいがじっと目を凝らせば、 水を肩に当てているようだった。の庇護欲はこういう時に最高潮に達する。 なにかあの人にしてあげられたらいいのに。痛いんだろうか。少しだけでも、ああ、 薬草をつんでこよう。そしたらきっと痛みぐらいは取り除いてあげられる。

は、ハッと我に還ってUターンして森の茂みに入っていった。 この小道はよく薬草がある。城使えの休み時間には暇つぶしに薬草散策に行った事もある。 それも何度も。それ故にの頭の中にはもう、いろんな薬草の知識がインプットされている。 まさかこんなところで役に立つなんて、片倉様が私に言ってくださった、勉学はどれだけやってもしすぎることには ならないっていう言葉の意味がよく理解できた、凄い人だなぁ、あの方は。そんなことを思いながら、 十二分の薬草を両手に持っては元のところに戻った。


湖畔には何も居なくなっていた。


それでもまだ、どこかに行ったわけではないのだろうか、戦の準備で見るような鋭さをもった短剣2本が妙な 1本の鞘と一緒に転がっている。傍には小さく赤い斑点がぽたぽたと。 町人や商人でないのはもう、はっきりと証明された。それでもは安心した。 どこかに行ったのでないのなら、それでいい。は一瞬は愕然とした顔を緩ませ、 よかった、と溢しさえして、そこ直ぐ傍に薬草をそっと置いた。願わくば、この薬草が 彼、または彼女の痛みをやわらげられますように。

何度もいうが、は唯のしがない文官だ。


「………」


だから、その視線に気付くことはなかった。














それから。
その日はやはり遅れてしまった。それでも日頃の行動の規律が正しかったは 上司にそこまで言われることもなく、普通に職務をこなし、部下と雑談し、昼食をとり、 一日の報告を済ませて、家に帰った。 しかし気に掛かったのが、筆が1つ足りなかったことだ。 恐らくは朝、あの湖畔に落としてきたのだろうと思って、危険ではあるけれど帰りに探してみたが、 残念なことに発見は出来なかった。仕方なく提灯をもって帰る途中空を見ると、雲ひとつない綺麗な濃い群青の 中に碁石のように白い月が浮いていた。

家の中はいつもと違うひんやりとした空気が満ちていた。 そういえば、とは思い出す。同居していた男は今日の昼から里帰りすると言っていた気がする。 それにしては窓は開いているわ、雨戸はしまっていないは…きっと彼はとても急いでいたんだろう、 母思いな人だから。は苦笑を漏らしながらそれら全てを片付けて行灯に火をつけようとした。


「…誰か、いるのかい?」


部屋の奥のほうから、小さく、本当に小さく音が聞こえたのだ。は怪訝に思いながらも、 さして心配はしていなかった。だって家の中には盗られるようなものは置いていないし、 あるといえば、この命ぐらいだ。けれど上司は、何もしなければ勝手に逃げていくさ、と 言っていた。それもそうだ。無駄に咎を持ちたいと思う人間も居まい。


「大丈夫だよ、私はなにもしないから
誰かに抗うような気概も持っていないんだ
情けない人間でね、それに疲れているし」


すると突然背後に気配が落ちてきて、は一瞬息を呑んだ。 そしてゆっくり後ろを振り返ろうとして、そこで頬に当ったのは朝見た、あの 見事な装飾の短剣だった。うしろを見るなということだろう。はわかったよ、と 穏やかに言って前を見た。それにしても、よかった。 こうやって誰にも気付かれないぐらいに動けるようになったんだ。 きっと乱派の類だったんだろう、息をする音ひとつ聞こえやしない後ろの 生命体に、は一縷の興味を抱いた。


「顔を見てはいけないのかい」

「・・・」


無論、返事はない。


「うーん、それでは何か用事でもあったのかい
若し、無いのなら、この家には残念だけれど何もないから
そうやって私を殺すぐらいしかできないかもしれないよ」

「・・・」


暫しの沈黙の後、の手に触れたのは固い感触の何かだった。 これは、もしや、と思うけれど、まだ後ろに誰かさんが立っている所為で確かめようも無い。 それでも長年の記憶の蓄積から解る。是は、あの筆だ、と。 届けてくれたのか。はつい嬉しくなって、ふふふ、と声を溢した。 恐らく後ろに居るのは今朝のあの明るい茶の髪の乱派だろうが、の笑い声が聞こえてから 少し身を固まらせたようだ。たじろいだ様にじゃりり、と玄関の土が鳴った。


「ありがとう、届けてくれたんだね」

「・・・」


それでも返事は無い。


「私が気を抜いたなら、その刃は私に刺さってしまうのかな」

「・・・」


短剣が、音もなく退かれた。


「ありがとう」

「・・・」

「君は、」


言葉を遮るようにして、脇の下、後ろから手が伸びてきたかと思うと、 するりと頬の辺りに指先が触れる。触れるといっても、彼は篭手をつけているようで、 滑らかな皮の様な感触がした。そしてその皮の手はの頬の辺りを、何か、猫でも撫でるかのように 2、3、行ったり来たりしたあとにまた音も立てずに離れた。


「君は・・・」


勇気を出して振り返った、そこには誰も居なかった。














、今日は早く来たか。いい心がけだ」

「片倉様。おはようございます」

「ああ。今日も頼むぞ、お前のお陰で作業が捗る

「ありがとう、ございます。でも、」

「なんだ?」

「その、子ども扱いはおやめください」

「ははは、子ども扱いなんざしちゃいねぇさ」


(そうやって、頭を撫でるのを、言うんですが)


日の上がって直ぐの位にははもう城に出向いていた。
それで、記帳しているところに出てきたの上司は元気付けのためだろうか、 髪を荒く梳くようにの頭を撫でる。確かにそこまで馬鹿丁寧に整えてきては 居ないというものの、流石にその頭のまま仕事をするわけにもいかずにはいつも 髪を整えに行く。出勤時間の早い遅いに関わらず、もはやこれが毎朝の挨拶になっていた。


「それじゃあ、いってきます」


毎日毎日、髪を整える仕事に就いた方が楽かもしれませんね。
いやいや、それはやめておけ、どうせ引き戻される。
そう…ですか?困ったものですね

そういって微笑みも半ばに席を立ち、髪を整えに行くであろうの背中を見詰める。 奥州伊達軍には珍しくない、結い上げていない髪。それは元来男だけであったけれど、 は女房としてでなく、文官として城で仕える以上、自分もそうしたいといって聞かなかった。 片倉小十郎はそんなの敬謙さを買っていた。


(あいつは誰にでも謙虚だ)
(だが、もしも)
(俺だけのものに出来たなら)


案外、それだけでは、ないけれど。














「『くーる』な『せっと』も、簡単にはいかないねぇ」


いったいぜんたい、でぃふぃかると。
は髪を直した後、偶然にも目に留まった池に顔を映して じっと髪を弄っていた。中で泳ぐ鯉がふわふわとの顔を横切っていく。 金やら、白金やらが入り混じったそれはそれは美しい観賞魚は 城主が地方の部下から貰ったものだったか。たまに此方に口を開けて 餌を乞う姿が可愛くて、はその口の上で人差し指をゆらゆらさせた。

ぱさり


「…ん?」


そこにあったのは綺麗な花束だった。
綺麗に包装されて、いつの間にか、の隣においてあった。 今の時期に山で咲く花は多い。それこそ薬草よりもずっと種類豊富ではその中でも ほんの少ししか名前はわからなかったけれど、名前がわからなくとも、それは充分に見事な 花束だった。さっき来た時にはなかった。だがはその花束を見た瞬間気に入った。 女好みのする、優しい感じが漂ってくるような見てくれだったのだ。


「部屋に飾ったら、みんな喜ぶだろうか」


もう皆出勤しているだろう。
軽い足取りで、は部屋に戻っていった。














「・・・・・・」


彼は何も言わずにそれを見ていた。





懐かぬ猫は

月を見上げ何を思う(1)


(ああ、そういえば、すてきなはなたばをくれたひと)
(いつかちゃんとおれいをしなくては)