幸村様と祝言をあげました。
最初は眼も見てくださらないので、私のことがお嫌いなのかと思いました。
しかしあの方は恥ずかしがっているだけなのだと、橙の髪の方から教わりました。
本当にそうなのですか、と訊くと、顔を真っ赤にして俯かれてしまいました。
ああ、どうしましょう。お顔が真っ赤です。
ある夜の羊、二匹なり。
婚儀の後にある最初の夜はそれはそれはギクシャクしておりました。
私が先に布団に鎮座して居りますと、幸村様はずっと遅れてからお部屋に入ってこられました。
しかし私は恥ずかしいことに正座には慣れておりませんから、足を横に崩しておりました。
一番最初の大切な夜に私という馬鹿者は、はしたない所を見られてしまったわけです。
なんということ。なんて失態。これから武家の妻を勤めるという最初に、大きなバツ印を
己の顔に書き入れてしまったのです。
「も、申し訳有りません…」
私は即座に足を戻しました。こんな事をしても、もう失望されていることでしょう。
それだけ礼儀には五月蝿いもの、それが武士だと習ってまいりました。
出来ることならば今すぐ、このお部屋を出てお荷物をまとめたいのですが、
それもまたきっと無礼に当るのでしょう。わたしはそんな命知らずでは在りません。
どんな仕打ちを為さるのか、本当に泣きそうになりながら私は下を向いて正座しておりました。
「その…、なんというか」
「…はい」
「顔を上げよ、」
何かを躊躇なさったのでしょうか。幸村様は少しだけの咳払いと、それから小さな声で、そう
仰いました。最初は上のほうから聞こえていた声も、次の瞬間には私の近くに近づいておられました。
そう言われましても、怖くてまともに首が動きません。顔を上げた時、幸村様は如何様なお顔をなさって
おいでなのでしょう。ひどく卑怯ですが、痛いのは嫌です。だからといって冷めたお顔であっても、
拝見した時きっと悲しいに違いありません。
「……某も、そんなに落ち着いては居らぬ」
顔を下げたままの私にかけられました声は、思い描いておりました幸村様の声よりも
ずっとずっと優しゅうございました。しかもその声にあわせて私の肩にお手を乗せられましたから、
私は堪らなくなって顔を上げてしまいました。しまいました、という表現はおかしいのかも知れません。
幸村様はずっと前に顔を上げるよう私に仰ったのですから。
私が顔を上げて一番に目に入って来た幸村様のお顔は、祝言を上げてから今までの中で
一番打ち解けなさったお顔でございました。しかしそれだけで不安で一杯だった私の頭の中は真っ青な晴天に
なっていくのです。人の笑顔のなんと心地良いこと。それが幸村様なら、尚更。
「あの、申し訳有りませぬ…このような痴態を幸村様のお目に」
「いや、構わぬ、。先も申したが、某も落ち着いては居らぬ。
人は過ちと生きるもの。そなたが某に打ち解けてくれているようで少し、嬉しい」
「幸村様…」
「、苦しいのなら足を崩すと良い。某も正座はようせぬ」
ふわりと微笑まれましたそれは、人を暖かくする魔術でもはらんでいる様に感じました。
新鮮な血液が私の体中を巡って、次第に私の頬をも赤く染めていくようでございます。
動機と、紅潮がいつもの何倍もの速さで進んでいくのです。病なのでしょうか、きっと、病なのでしょう。
幸村様に掛けていただいた、言霊なのでございましょう。
幸村様は布団には入らずに、その上にお乗りになりました。
そして私の方を見遣りになって、その直ぐお隣の布団の皺を手で伸ばされ、其処に座るよう
仰られました。申し訳分に付けられた暗い行灯が私が動く風で少し、影を揺らします。
さて、幸村様の隣に座りますと、ぎこちないなりにも私の肩に手が回されました。
突然の出来事に幸村様を見上げますと、幸村様は最初の時のように真っ赤になっておいででした。
赤いとは言うものの、暗い行灯の火程ではあまり目立つことはありません。
唯、初めてお近くで見た幸村様のお顔の端整さに、目を奪われてしまうだけです。
幸村様が此方をお向きになったので、目が合ってしまいました。
その瞳の輝きに暫し如何することも出来ずにいましたが、やはり恥ずかしゅうございました。
殿方とこのような距離に居りました事など一度としてありませんでした。
それにお相手は夫となるお方。意識しないことなぞ、無理でございます。
「某も、気恥ずかしい」
薄暗い明かりの中の幸村様は恥らったような笑いを浮べになって、すっかり降ろしてしまった私の髪を
すっと撫でてくださいました。一体このお方の何処が『恥ずかしがり』なのでございましょう。
幸村様が恥ずかしがりと言われるのならば、私は何なのでしょう。前代未聞の恥ずかしがりでは
ありませんか。それほどに幸村様の行動は普通極まるもので、私はその心地良い動作に
ゆったりを身を委ねたくなってしまうのです。
「某たちは、何も知らない同士だ。某はを知らぬ。もそうであろう?」
「そ、その様な事ございませぬ…は幸村様を勇猛果敢な勇士と聞き及んでおります。
今日初めてそのお姿を拝見いたしましても、それはひしひしと伝わって参りました。
それで、その……この方にこそ、嫁ぎたい、と…」
幸村様の前で話す私の声は、次第に小さくなっていきました。
しかし詮無きことです。勢いに飲まれていってしまったことではございますが、一切合財考え直してみれば、
『この方にこそ嫁ぎたい』などというのは、武家の女に有るまじき発言でございます。私に
夫を選ぶ権利が在るような言い方は決して良うございません。
ここまで大っぴらに失態をさらけ出してしまうのは私ぐらいのものでしょう。
しかし幸村様は、どうしようと混乱している私の肩を寄り強く引き寄せられました。
瞬時に幸村様のぴっちりと着こなされた白い寝着が私の世界を真っ白に染め抜きます。
見上げました幸村様のお顔は今度こそ烈火のごとく紅くなっておいででした。
「あの日そなたを一目見てから、某の心には何か、小さな火種が落とされていた。
それは燃え広がって今は野を焼け尽くさんばかりなのだ。」
あの日、というのは恐らく、の城に幸村様が文を届けにいらしたときでございましょう。
幸村様に拝謁しましたのは、今日で二度目なのです。
あの時はこんなことになるとは思っておりませんでしたから、大して気にかけることもなく
お父様の隣に控えておりましたが、まさかその時から幸村様が私に気をかけていてくださったなんて。
私はなんと仕合せな女なのでしょう。
俗説の紅い糸、今ならばきっと信用できます。
「某は嬉しい。を娶ることが叶った」
子供のように微笑みになる幸村様は、少しだけ頼りの無い様にも見えましたが
それでも私はその笑顔に釘付けになるのです。幸村様はそのまま、私の手の平、額、頬、に次々と
唇を吸い添えになりました。このようなこと、生きてきて一度も無いものですから私は幸村様の服の袖を
邪魔にならないように握り締めておりました。最初の夜が何故特別なのか、それは解っておりました。
姉上達からその…、そういう巻物が渡されたからでございます。結局は読まずに返してしまいました。
今は読んでいたほうが良かったような気がします。如何したらよいのでしょう。
「あ、幸村様…」
幸村様の唇が私の肩口まで来ました時、私は予想だにしていなかったので声を出してしまいました。
すると幸村様の動きがはた、とお止りになりました。もしかしたらあの巻物には『声を上げるべからず』
などと書いてあったのかもしれません。ご法度を犯してしまったのかもしれません。
「っ」
幸村様は私の両肩に手をやって、ぐい、と私との距離を作られました。
そのお口は真一文字になっておられて、お顔も随分と紅潮なさっておいでです。
怒らせてしまった、と思いました。この肩にかかった手は私の首に巻きつくのかも知れません。
私はきつく目を閉じました。せめてものお情けで、苦しまないようにお願いいたします、幸村様。
「っすまぬ!」
幸村様はそういうと私の首に手を…、いいえ、そんなことはございませんでした。
いつまで待っても新鮮な空気が私に配給されるものですから、変だと思いそっと目を開けてみますと、
白い絹の布団の上に幸村様が、なんと、土下座を為さっておいででございました。
それにしても、土下座もまた絵になるお方でございます。
「あの、どうかなさったのですか、幸村様?」
「面目ない……某はこれ以上出来ぬ」
「……いいえ、お顔を上げてくださいませ。
何か至らぬところがございましたのでしょう」
「っそうでは、ない」
そのお肩に手が触れる前に幸村様は体を起こされますと、また私をお抱きになりました。
そしてなにか小さく私の耳元に話しかけられましたから、私は一生懸命耳を欹てて聞いておりました。
一生懸命といっても、とても静かな空間でございます。小さな身じろぎも大きな音となります。
行灯の炎のじじ、という音も充分に聞こえるのです。そのまま、幸村様は言われました。
「は、恥ずかしいのだ…」
何を言われても受け止めようとして居りました私の目はことごとくまん丸になってしまいました。
沿う言い放った後の幸村様は私の首に顔を埋められ、これ以上は出来ぬ…、と繰り返し仰いました。
この方の恥ずかしいの限度は私程度では理解に足りないのでしょうか、私は幸村様が手に口吸いなさった
ときからずっと、恥ずかしかったのでございます。それでも思う気持ちは同じだとわかり、私はつい
小さく声を上げて笑ってしまいました。橙の髪の方が仰って居られたことは、どうであれ当って
いたのでございましょう。つと触れた幸村様の頬は私の頬よりもずっと熱うございました。
「武士の名折れなり……はそんな某を嫌うか?」
「いいえ、いいえ。その幸村様をお慕い申し上げて居るのです
こうして抱締めていただけただけで、至極にございます。は仕合せ者です」
「…某はを娶って本当に良かった」
幸村様は顔をお上げになって、私の頬にちゅう、と音を鳴らしました。
どうしても頬で止ってしまうのでございましょう。そうした後にまた、私の肩に
お顔を埋められます。逞しい腕が私の腰に纏わりついて、ちょっとした動きも相成りません。
私が呼吸をして肺が膨れるのと、幸村様の肺が膨れるのとが一緒に成ると、息苦しくなります。
しかしそれを感じて、2人が此処にいるのだ、と感じるのでございます。
「幸村様、今日はもう就寝いたしましょう」
「うむ。しかしそれでは良いのか?」
「こうして愛しい方と心音を交わらせることがこの夜の本意でございましょう
私はもう充分でございます。幸村様のお体の温かさが何より暖くてございます」
「そうか。ならば某もまた、仕合せ者だ。
そなたが近くに居るというだけでこんなにも
心が躍る」
「…私も。」
今宵は捕食者の居らぬ夜でございます。
喰うも食わるるも決さぬ白い舞台の上では、二匹のまっしろな羊が身を寄せ合って
おりました。しだいに両匹はうつらうつらとしてきたので、その身と同じ色の足元に
潜り込みます。冷え切ったその中で、触れ合う手と手、足と足。それだけが共有できる
暖かさであり、愛情でございます。草を食むこともせず、野を駆けることも無く、二匹は
じっとその暖かさを身に感じておりました。
そして2匹は夢の中。
とっぷりと深けた夜の中で、また2人は出会うのでございましょう。