『三戦神』―――つまり摩利支天、大黒天、毘沙門天の戦いの守護神。

あの天下に名高い武将、上杉謙信が軍神と呼ばれるように、そして彼自身が 己を毘沙門天と言うように、その三戦神とは戦国において凄まじい影響力を持つ。

ことに摩利支天は女性の神。陽炎の神格。摩利支天経に説かれ、勝利や護身をつかさどり、武士の 守護神とされていた。昔から伝わる書の中に摩利支天経という書はあって、 そこに記される摩利支天は常に日の前に居て、日に使え、その姿は日からも人からも見られることはなく、 それ故に他に捉えられ害されることもないという。







08 此処に居て、良い







「……佐助」

「なぁによ旦那」

「お館様と殿は何を話しておられるのであろうな」

ちゃんの事でも聞いてるんじゃないの?」

「そのために、お館様が頭を下げられるのか」

「あの人ああ見えて律儀だからねぇ…」

「ああ見えて、ではない」

「はーいはい」


少し離れた背の低い、垣根にて、 相変わらずの君主愛に佐助は肩を窄めた。
佐助が普段偵察で使う望遠鏡を穴が開くほどに見つめながら 、幸村はあの謁見の間の雰囲気を少しでも読もうとしていたけれど、表情から察するに どうやらそう簡単ではないようだ。

佐助は大体予想が出来ていた。
きっとは信玄に自分の生い立ちを語るだろう、そして それでもって自分が摩利支天でないことを証明するだろう、と。
佐助は今朝の布団に入り込む前に、ふと信玄の部屋に(つまり天上裏)寄って、 机の上に放られている帖を目にしていたのだ。


「ねー旦那」

「ん?なんだ佐助」

ちゃんの事、どう思う?」

「………殿は、」

殿は?」

「い、今はその様な話をするべきでないだろう!」

「赤くなっちゃって、やらしいんだ旦那」

「さ、さす…な、何を申すか!」


がどんな問題を抱えていても、きっと信玄はを武田に置く気だろう。
それは勿論わかっていたし、確信もあった。けれど、佐助は 深奥ではを疑っている自分が、の言う真実を受け入れてやれるかどうかが不安だった。
主人をからかってみてもスッキリしそうに無くて、はやくおわんねーかなぁ、と溢した時に 聞こえた真剣な、声。


「しかし、俺は殿の全てを受け入れたい。…殿がそう望むのなら」

「へぇ……勇ましいじゃないの」


彼みたく真っ直ぐに見つめられたらいいのにと思った、刹那。



















「…まりしてん?いいえ、聞いたことも無いです」


自分の無知を晒すまいとする前にの口から出てきたのはなんとも 気の抜けた否定の言葉だった。 言った後になってもっと気の利いた否定の仕方があったじゃないかとも思ったが 時既に遅く、は驚愕の表情で顔を上げた信玄と対面した。
無言のまま、暫し見詰め合う。 (すっげぇー気まずい)


「知らぬと仰すにしても…あまりに殿は奇怪な節が多い」


困ったような、戸惑いを含む声で呟くように信玄は言う。
確かにが此処(躑躅ヶ崎とか言っていた)に来る前に着ていた服は 戦国にそぐわない物であった。それにこの時代、髪を短くした女性などは滅多にみられない。 くの一、異国からやってきた者、その程度である。
は見た目やらなにやらで異国人で ないとは直ぐに分ったのだが。

はその信玄の様子にすこし面食らってから、考え込むようにして唸った後、 先の殴り合いで吹き飛んだ障子の先に見える、青々と茂った牡丹を見た。 (勿論何の助けにもならなかったが)
暫しぼぉっと見て小さく頷き、信玄に向き直る。


「信玄公、俺はこの時代の人間じゃないんですよ」


詮索はしないと言われて安心していたことはもう、すっかり忘れてしまった。
もし此処で曖昧に返事をして、信玄公にほんの少し、欠片でも自分を『摩利支天』ではないのか 、と思わせ続けるのが失礼に思えた。 それに、変な噂は流れる前に断ち切ってしまったほうが後々の為に良い。


「それは…平常で聞き流せる話ではありませぬな」

「驚愕なさっても構いませんが、信じていただけるとありがたいです」

「無論。信じましょうぞ」


安堵のために、胸に詰まっていた息が漏れた。 話す相手が信玄公でよかったと思った。此れが今川義元やザビーであったなら 信じる信じないの話ではなかっただろう。 ザビーは、何よりも入信うんたらの話だろうから、此方の話など聞きやしないだろうし、 今川にいたってはもう、おじゃおじゃであっただろう。 それに比べ、この男の笑顔はとても安心できる。 流石は虎と猿とを従える甲斐の虎といったところか。


「俺はずっと先の未来から来たんです」

「ずっと先、とな」

「正確に言えば500年先。すっかり変貌しきった未来に生きていました。
そこでの俺の性別は今と正反対で男だったし、自分の立場も役割もはっきりと 分っていました」

「しかし殿が男であるとは…また突飛ですな」

「そうでしょう?女になったことについては俺もよく分らないんです。
これにいたってはもう、俺も困惑するしかなくて… ついでに言えばあの時あの戦場に立っていたことも、経路はハッキリしないんです」

「幸村等の事は知っておったと聞くが」

「ええアイツ等の事は知ってましたよ。俺の居た所でも有名でしたから。
信玄公も有名ですし」

「ワシもか!それは有り難いのぉ」


混乱している時、紙に書いたり人に説明したりする事以上に良い事は無い。
言葉や文字にする過程で、自分にも整理がつくからだ。
しかしあえて威鞘のことは言わないでおいた。この世界がゲームの中であることも。 自分でも全く納得しきっていないことを 他人に言えば、それは何かと問われた時返答に困るからだ。(それだけ、というわけでもないが)

視線の先の信玄はの言ったことを何度か反芻して噛み砕いてから理解しているようだった。 つまりはこういうことですかな?、そうしたらばこれは…、と積極的に質問をしてくる信玄には 嬉しくなって自分のできる限りでの返答をした。


「とまぁ、俺のお教えできる事はこの位です」

「詮索はせぬと言うてはおったものの、
殿直々に説明くださりたすかりましたぞ」

「こんな突飛な話、信じてくださったんですか?」

殿は信じて欲しくない、と?」

「いえいえとんでもございませんよ。ところで信玄公」

「なんでありましょうかな?殿」

「いやその、もう敬語はよしてくださいよ。俺は唯の人間なんですって」


説明しきって安心した時、 やっと信玄と会った時から感じていた違和感の正体に気付いた。

は唯の一般人なので信玄に敬語を使うのは当然なのだが、 信玄が自分に敬語を使う、というところに違和感があったのだ。 信玄はとの宴席を持つ前にその『摩利支天経』とやらを読んだとのことなので を崇拝する意味で敬語を使っていたのだろうが、はそうでないと発覚している。 つまりもう信玄がを敬う必要性は皆無なのだ。

しかし信玄は引かない。


「それはならぬ。殿は武田の客人、粗野に扱うは許されぬでな」

「客人?それじゃあ、例えば、俺が武田の兵になったなら、やめてくださるんですか?」

「ほほぉ、殿は先見の力でもおありかな」


信玄は万遍の笑みで返した。はその語意は理解できたものの、それが何を指すのか 全くわからなくて首をかしげ加減に眉を寄せる。 満足げに笑みを称えたまま話し始める信玄はとても楽しそうだ。 (けど俺はその前で眉寄せて変な顔だぜ☆)


「先の宴席の後、殿は佐助と共に出ておられたな」

「あの時は最後までご一緒できなくてすみませんでした…」

「はっはっは!もう良いのですよ、大事なのはその殿が居られぬ間の話」

「俺が居ない間の話?なにか話されたんですか信玄公」

「うむ。殿が席を外されてから、殿の印象をきいたのだが」

「そりゃあー…酒飲みとか、野蛮とか、じゃないですか?俺もそう思うし」

「いやいや、思うたより殿を我が武田に、という声が多くてな」

「酔ってたんでしょうねぇ、家臣の方々」

「ワシも酔っておったのでしょうな。
勢いで殿を武田に迎えると公言してしもうたのですよ」

「それはそれは………ん?」


は笑顔のまま一瞬止って考えた。
(信玄公も笑顔なので笑顔で睨めっこをしているみたいだ)
信玄公は今何を言ったんだ?俺を武田に迎えると空約束をしたって?
俺は信玄公にどんな姿を見せたんだ?そんなに好印象だったか?
たとい摩利支天でないことを引いても印象はマイナスにしかならない気がするんだが…
脳内で色々な問答が展開される。


「此れすなわち武田は殿を受け入れる、ということ。」

「で、でもいいんですか?
俺は摩利支天でも無ければ腕の立つ武士でもないんですよ?」

「摩利支天であるかないかも、その力量も、なまじ知らぬうちから皆は殿を迎えようと意気込んでおる。 …此れだけでは信じていただけぬかな?」

「…信じ、る」


認められた気がした。

もしかしたら自分だけこの世界から孤立しているような、そんな 被害妄想的な気分になっていたのかもしれないけれど、 確かには皆に馴染めていないと自ら思っていた。 今その言葉を聞いたとき、幸村も佐助も、皆が此処に居ていいと口をそろえて言ってくれた気がして。 そう思った瞬間、涙腺が潤んできた。は慌てて鼻をすすりながら目を瞬かせて、 信玄に含羞の笑みを向けた。(男の子は泣かねぇの!)

信玄はそんなを優しい瞳で見つめた後、おおそうじゃった、とおどけた口調で付け加えた。


「あの殿が参られた伊達の小倅との戦、実は困窮しておってのう」

「伊達…確か両軍和解で撤退になったとか聞いてます」

「然様。その戦況に埒を開けたのは殿、間違いなく貴殿であろうよ」

「俺はなんにもしてないですよ、幸村に説教したぐらいで」

「しかしながらあのどうとも動かぬ状況で、殿の急な乱入に助かったのはおそらく両軍。 つまり皆は殿を戦場を救った女神のような存在…ということになるのでしょうな、はっは!」

「いや『はっは』て!俺は女神じゃないんですから、信玄公!」


の突っ込みに尚笑いの拍車を駆けられた信玄は、豪快に笑い飛ばした後に さて…、と今一度真剣になった。それにあわせてもひょこ、と肩を揺らし、少し距離を取って正座をする。


殿は武田に迎えられてくださるのかな?」

「その、信玄公がよろしいのなら、俺は喜んで」

「うむ、善し!」

「わ」


瞬間、信玄が動いたかと思えば、その大きな手はの頭にのっていた。 がポカーンとしているうちにその手はの頭を豪快に撫でる。 (しかしまぁは女子なので手加減してかゆるやかめでもあったが)
最後に、撫でた所為で乱れたの髪を整えてやりながら信玄は言う。


「これよりそなたはこの武田信玄の家臣となった。
よ、強くなりたいのなら日々鍛錬し、 賢くなりたいのなら日々勉学に励め。
そしてつらくなれば何時でも、ワシに言え」

「有難うございます………その、お、お館様」

「礼を言わねばならぬのはワシ等の方じゃ。…のう?佐助、幸村」


最後の一言の向けられた先は天井だった。
は何故急にその二人の名が出てきたのか 最初は予想も出来なかったけれど、と信玄の間の天井板がゆっくり音も無く空けられた 時はああ成る程、そういうことか、と納得した。

まずヒョコリと出てきたのは橙の髪だった。


「やーっぱ判ってましたか、流石大将だねぇ」

「ふっ、ああも気配を出されては気付かぬ方が可笑しかろうて」

「そりゃあ旦那ですよ、俺は完っ璧に気配消してましたから」


ゴソゴソ聞こえてくる天井(恐らくは幸村が立てている音だ) から佐助はこれまた音も無くかすがのオープニングみたくして降りてくると、 信玄と他愛も無い話をした後の方に向いた。
正座しているの 傍に膝をつき覗き込んでにへら、と笑う。


「はいちゃ〜ん、ようこそ武田軍へ!」

「佐助…有難うな、初めてお前のこと良いヤツだなって思った」

「つれねぇなー……でもま、やっぱちゃんはそうでなくっちゃな」

「これ佐助、女神殿に何を言うか!」

「おっとこりゃ失敬いたしました女神さま」

「女神じゃない!人が悪いですよ!お、お館様!」


『お館様』と言い馴れないけれどそう呼びたいのか、奮闘する姿に 佐助どころか信玄までもが目尻を緩ませた。 気風よく笑うと佐助はの、まだ少しだけ乱れている髪を梳いてポンポンと やさしく叩いた後、開いたままの天井に話しかける。


「旦那ー?早く降りてこないとちゃん連れてっちゃうよ?」

「な、ならぬ!それはならん佐助!しかし望遠鏡が見つからぬ…!」

「ちょ、マジで落としちゃったのアレ。
仕方ねぇなー…まぁいいから降りてきなよ、大将も待ってるし」

「それならば降りて参ろう!佐助!俺が降りた暁には団子が三つ欲しい!」

「いや自分で行けよ!」


そのあと降りてきた幸村にも激励されて、はなんだかむず痒い様な気分になりながらも ありがとうと返した。(それに幸村が赤面したのは言うまでもない)
二日目にして、見知らぬ土地で新しい『居場所』を手に入れたことも充分な収穫であったけれど、 佐助や幸村、そして信玄というかけがえの無い人を得た事の方がずっと大きな収穫であって、 財産だろう。は顔に出さず感謝しながら、そう思った。


(ありがと、な。)