それは馬から飛び降りると、まず手始めに目の前の3人に手をかけた。
それぞれに拳、肘、膝を食い込ませると、踊るような勢いで
群の中枢に飛び込む。すると、群の中のそれぞれが、殺害目的でなく暴行目的で作り上げた
異形の武器らを高々に振り上げた。背の低いそれは、群に囲まれたようになって、周囲を見回した。
そして群全員の勝ち誇った表情を網膜に映しこんだ。それからそれは、
恐れるどころか、睨みつけるような、なんとも形容しがたい表情で嘲笑った。
振り下ろされる沢山の拷問器具。集中砲火されるそのいくらかはそれの肉を引き裂いたかもしれないが、
それは歪な微笑のままで舞い上がる。そしてなお、崩壊を知らぬ玩具を
相手にするかのようにして暴れ、
土煙が止んだ頃には、ひとりぼっち。
30 月の届かぬ夜
「あたたた…」
円形に平伏した賊の真ん中から聞こえた最初の声は、どうにも力の抜ける声だった。
はしゃがみ込んで痛みの元を探ってみた。すると、指先にやおら生ぬるいものが触れる。
身を捩ってその根源を探してみれば、それはふくらはぎの辺りからの出血であった。
傷自体は浅いのだが、削り取られたようで、広い範囲がひりひりした。
『どうしたんです、姉さん!』
「なに、大丈夫、大丈夫。唾付けときゃ治るだろう。
心配するな、1回村に戻るぞ。今なら人も居ないだろうし」
は、心配そうに駆け寄ってくるアレクサンドリアフィンドルスゴビッチ
政宗を宥め賺すと、いつき門の方へ向かいながら、自分の拳を見つめた。
人を殴ると自分の手も痛くなる。節が内出血でほんのりと赤くなった手を
開いたり閉じたりした。
なにより今は、村に入って、布を一枚失敬した後、水場で傷口を洗うのが最優先だ。
薄い紙で切った傷も痛いが、擦って出来た擦り傷も中々に痛い。
「さーん!」
「お、弥吉かー?」
いつき門の下で手を振る青年が視界に入った。その青年、弥吉は
が手を振り返すと、尚元気に手を振り返した。
そして近寄ってくると、早速の足跡に連動してぽたぽた落ちている赤い滴りに気付く。
とたん顔を真っ青にする弥吉。
「さ…っ、どこにお怪我を!」
「いや、なんてこたァねえよ。ふくらはぎでザクロを潰しただけだ。
それより弥吉、そこら辺に散らばってる奴等、頼んでいいか」
「はい!全員の息の根止めて置きます!」
「いやいやいや、縛って何処かに転がす程度でいいから
そんな悪魔みたいなことしなくていいから」
いろんな意味でヤル気満々の弥吉に事後処理は任せておいて、は
村の中に戻ることにした。アレクサンドリアフィンドルスゴビッチ政宗
の背に乗って、ぽっくりぽっくり進む。なに、急ぐことも無い。
徒歩ならもっと血が出ていただろうから、アレクサンドリアフィンドルスゴビッチ政宗に感謝の言葉を投げると、
彼はどうってことないですよ、と優しく返した。
現在、村の中は当然、閑散としていて不気味に見えるほどだ。
はその中を進みながら、外に干してあった誰かの家の布を一枚拝借して水場に向かう。
水場は村外れの、殆ど森といっていい景観の中にぽつんと存在していた。
円形の井戸の中に桶を落として水をくみ上げると、
地下水だからだろうか、随分と冷えた水がの指先に触れた。
傷口を洗い流して、失敬した布を巻きつけると痛みも和らいだ。
砂利が入っていたのかもしれない。
「ん、充分動ける」
血を失いすぎたわけでも、痛みで動けないほどでもない。は何度か地面を蹴りつけるように
して怪我の塩梅を確かめると、アレクサンドリアフィンドルスゴビッチ政宗に乗りながら、
弥吉の手伝い手もしようかと思い立った。
政宗たちには今日帰ると言って在るので、今日中に帰らねばならない。
日も中々に良い朝になりつつあった。
来たとき同様、帰るのにも大体4時間掛かるのだから、昼ぐらいには村を出たいところだ。
「よし、弥吉の手伝いに行こう。門まで向かってくれ」
「…な、」
何を言ったら良いのか分らない。
というよりも、どうやって言葉を発するのかも忘れてしまったかのように、
喉の奥が、声帯が、振動を拒否している。
次第に息も浅くなって、口腔内の水分は殆ど消えうせた。
俺は両手をぶらんと体の両脇にたらして突っ立ったままで、その光景を眺めていた。
「うわぁぁぁぁぁ…っ」
耳の中に響いてくるのは幼い声だけだった。
俺は殆ど無意識に、それも最高にぎこちない動きでその声の主に顔を向ける。
恐らく今の俺は無表情だ。このままでは表情筋の使い方さえ忘れてしまいそうで怖い。
俺の視線の先の二つ結びの頭は、相変わらず俺に後頭部を見せたまま、小刻みに震えていた。
「…弥吉兄ちゃん、にいちゃんっ…!」
泣き崩れそうな声が呼ぶ、弥吉、という名を聞いてから、やっと俺は正気に戻った。
とたん力の入った体を出来る限りの速さで動かして、声の主の隣に付く。俺の存在に気がついて、
こちらを見たその瞳は信じられないほど厚い水の膜に覆われて、次々に雫が頬を伝っていた。
引き攣ってしまった彼女の横隔膜を元に戻すために、出来るだけ優しくその細い肩を抱いて、何度か
背を擦った。その間、その大きな瞳からは数え切れないほどの水分が旅立っていき、その
口からは何度も義兄の名を聞いたが、次第にそれも収まってきて、最後にはしゃくりあげ、震える肩も治まった。
よしよし、と頭を撫でるが、そうして余裕ぶっている俺も、
正気で居ることに大変な精神力を要している。
その原因は目の前の弥吉にあった。
「、さ、ん…」
「…おう、今はあまり話さないほうがいい」
「へ、へ…、そう、す、ね」
いつもは朗らかなはずの笑みは今、寂寥さえ感じさせた。
弥吉の体は血まみれだった。
腕や顔に在る傷も目立つには目立つが、
特に、正面を袈裟懸けにやられたのだろう切り傷がド派手な赤を算出し続けているのが目に留まる。
弥吉は仰向けに倒れたまま、いつきに縋りつかれて、荒い息を吐き出していた。
加えて、いつきに縋られた側の手はかすかにいつきに触れようと動いているが、左手が全く動いていない。
何かされたんだろう。
一体誰に、それはもはや分りきった答えだ。俺は顔を上げて辺りを見回した。誰も居ない。
その代わりに刃物で切られたような縄が10束分ほど落ちていた。
加害者が分っても、何が起こったかはわからない。いつきに説明を願うと、
いつきは諸処でつっかえながら詳細を話してくれた。
いつきは俺が水場に向かったぐらいの時に、弥吉のところに向かった。
いつきが門に来たころ弥吉は、見知らぬ男らを荒縄で拘束していたらしい。
この見知らぬ男っていうのは賊のことだろう。
全員を拘束し終わったあと、弥吉は俺の怪我を心配して、俺のところに行こうとしたらしい。
するとそこに現れたのが、先刻の賊と同じような出で立ちの男達だった。
その男達は20人ほどの軍団で、その人数を生かしていつきを捕まえ人質に取ると、多勢に無勢の状況の中で
もなお向かっていこうとする弥吉への牽制に使い、最初の10人全員を解放した。弥吉は賊への義憤に憤って
いただろうが、いつきを楯にされては何も出来なかったようだ。
その代わり、村の変わりに自分を痛めつけるように提案した。賊等はその条件を呑んで、
弥吉に暴行を加えた。
賊の仲間らはそのあと、帰っていくどころか、村を攻めると言い始めた。
それは俺が最初の賊等に負傷させたからではなく、最初からそのつもりで、
不作凶作関係なく、村でなく村人を襲うつもりだったのだという。
道理で俺と戦った奴等の武器も殺傷能力が低いものばかりだったわけだ。
本当にブッ飛んだ変態野郎どもだな。
勿論弥吉はそれに反対した。頭に血が昇って、殆ど反射的に切りかかっていったんだろう。
しかし相手側にはいつきがいる。それを思い出した弥吉は逆に攻撃にあって、今に至る――
「…そうか、いつき、怪我は無かったか?」
「おらは、なんにも」
「よかった」
俺はまた泣きそうになるいつきの頭を一撫ぜして弥吉の方に向き直った。
先刻よりも正常な呼吸が出来ている。
どうやら外傷的なショックから呼吸困難になっていただけで、
袈裟懸けの傷は見かけよりも浅いようだ。それにしても内出血で赤黒くなった打撲やらを見ていると、
目を覆いたくなるぐらいの痛めつけられようだ。
「アレクサンドリアフィンドルスゴビッチ政宗」
『はい、姉さん』
「村の何処かから手当てに使えそうな布を幾らかもってこい。」
『わかりました。…弥吉さん、大丈夫なんですか』
「死にはしねえさ」
その返事に安心したアレクサンドリアフィンドルスゴビッチ政宗は、
小気味良い蹄の音を立てながら村に入っていった。
これで計二枚以上の布を失敬するわけだが、まぁ、緊急事態だ、勘弁してほしい。
俺は自分の足に巻いていた布を外した。まだ充分な湿り気を持っているそれの血痕の付いていない部分を
使って、ややゲル化し始めた弥吉の血液を拭った。
幸運にも俺の脚の出血は止まったようなので、無くても差し障りは無い。
見る限りでは、出血を伴う怪我は真ん中だけのようだ。拭い去るには一枚で事足りるだろう。
さて、
これで弥吉の手当ては何とかなるにしても、俺にはもうひとつやることが残っている。
赤黒い血で汚れた布いきれを道端に投げ捨てた。
「どこにいくだ」
「ちょっとお前ンとこの村にお出掛けしてくる」
「あ、あぶないだよっ、未だ賊がいるべ!」
「…いつきお前、メタルギアって知ってるか?
俺さ、1度リアルにやってみたかったんだよ、アレ」
ちょっと本音。
摩訶不思議な言葉を聞いて顔をゆがめるいつき。その奥の弥吉は目を閉じて居る。
失血が多かった所為か。でも流出量から見るにそこまで重度ではないみたいだ。
俺はそれ以上の追跡と加担とを防ぐ為に、いつきの次の言葉を待たずして村に向かうことにした。
□□□□□□□□□□
俺が最初にいつきと離れた場所、つまり坂の麓は村の奥のほうにある。途中の森ならばまだしも、
門から進めばショートカットの手段は無い。村を襲撃した山賊らは、
いつき門から侵入したことからして、どうにも此処の地理には詳しくないようだ。
ならば2,3度集落の中を動いた俺のほうが有利だ。坂への道は良く分っている。
村人を探している賊らを手っ取り早く見つけるため、俺も坂へ向かうことにした。
数分もしないうちに声が聞こえた。俺は(それはもうスネークのようにして)物陰に隠れる。
聞こえたのは男の声だ。それも農民の様な訛りの無い口調。賊だ。家一件を境にして、
俺の前を賊が通っていく。足音に迷いが無い、ということは、奴等は既に村には人っ子一人いないことに
気付いているのか。畜生、てめぇら、どっかに不法侵入しやがったな。
すいません家を荒らされた人。俺が制裁を加えます。不法侵入、駄目、絶対。
「待て」
俺の前を、正しくは家の前を賊が過ぎたぐらいになってから、
俺はその最後尾につけるようにして奴等に声を掛けた。
村中が閑散としている為に俺の声は存外大きく響いて、
連中全体に行き渡ったらしい。
進行の流れを止めて全員が俺を振り返った。
28…30人ぐらいか。いつきの話と合致する。
ということは、俺が鉄拳制裁を加えた奴等もいるってこったな。
「ひっ、トンプータン…!」
うん、案の定居たらしい。
青ざめた上に俺の偽名(?)を思わず口に出してしまった賊(壱)。
いや、あいつだけではない。どうにも事前に俺と出会っていたらしき
男等は殆どが、集団の中でも浮くぐらいに腰を引いている。
そして、アイツは危険だ、俺達はあいつにやられた、と烏が仲間に突然の危険を知らせるが如くして、
ぎぃぎぃ全員に聞こえるようにのたまい始めた。
烏の声が全員に行き渡ったであろうとき、俺の目の前に大男が現れた。
大男といってもそりゃあ、秀吉には劣る。ゴリラには劣るが、確実に半兵衛よりは背の高い男だ。
あくまでゲームの中の見た目で言っているから、実際は半兵衛の方が大きいのかも知れんが。
大男は隆々とした筋骨逞しい胸板を、窮屈な服に押し込めて、それを呼吸で上下させながら
俺を見下していた。気に食わんやつだ。てめえの背骨の三番から十番までもってってやろうか。
「俺の子分が世話になったみてえだなァ、女」
「こちらこそ、弥吉が世話ンなったらしいな、木偶の坊」
「アァ?」
男は一端の『小娘』ならば一瞬にして腰を抜かしてしまうほど低い声でもって、俺の顔面ギリギリまでその
顔を近づけた。どうやらメンチをきられている、らしい。馬鹿なヤツだ。俺はそんな程度のメンチなんて、
怖くも何とも無い。お前みたいに真っ当な殺気も出せないような奴等のやるメンチ
(南第二高ンとこの番長がやってたようなヤツ)ってぇのはな、
顔面の造りがコレ、なんか壊れてない?可笑しくない?ちょ、パースどうしたの?
っていいたくなる、逆に引いちゃうもんなんだよ。全世界がドン引きだよ。
「弥吉ィ?」
「木偶だからって忘れちゃ居ねぇだろう。
先刻入り口の門で、テメェ等が好き勝手やってくれたやつだよ」
「…はァん、あのゴミか」
男は心の底から馬鹿にしたような声で、弥吉のコトを『ゴミ』と呼んだ。
それだけならいい(いや、良くは無いんだが)、男の後ろではこれ見よがしに
部下等がせせら笑っている。陰険だ。まるで女子高生だ。
そんでもって俺はクラスの中心で菊の花を飾られた転校生ってとこか。
無力で、孤独で、誰よりも劣った一個体。見た目で判断するとだけどな。俺、オトコノコだからね。
「、」
「おい馬ァ鹿だろう、あのゴミ」
木偶は行き成り俺の顎を掴み、顔を近づけてきた。
結構な身長差が在るから、俺は口から気道までが一直線に成った様な格好に成る。
ちょ、痛い痛い、手、お前の手痛い、俺の首痛い。それからこいつの息が凄まじい。
ある意味痛い。ブレスケア(せめてもの哀れみであだ名を付けてみた)は
俺とデコがくっ付く寸前の所で、いやらしい笑みを浮べながら言う。
「クソみてえな条件聞いて痛めつけたがよ、それで終わると思ってんだから幸せなゴミだよな。
村に行くっつったら足にしがみついて来やがって、気色悪いから骨ェ折ってやった
ま、俺は優しいから利き腕には何もしなかったんだけどな?」
「頭ァ、だから両腕斬っとこうっつったんだよ、芋虫みてぇにさ」
「指図すんな!良く切れるのが無かったんだ、仕様がねえだろう、馬鹿野郎が!
…それでなァ、あの餓鬼、わかるか?あの餓鬼だよ」
「…いつきか」
「名前なんか知るか。あの餓鬼、小奇麗な顔してるだろう、
生娘を裏で売っぱらったら良い金になるんだよ。
そんで連れてこうとしたら、あのクズ、立ち上がって向かってきやがって
アレだけやったのに良くやるぜ。流石は伊達軍の狗ってか」
「…」
「お望み通り斬ってやったよ、うさ晴らしが目的だったからまともに斬れるもんは無かったがな
そしたらあのゴミ、1度倒れたのにまだ這いずってこっちまできやがる
なんだったか…ああ、そう。まてぇ〜、とか、その子をはなせぇ〜とかほざきながらな
へへ、笑えるだろ?体の真ん中踏み潰したバッタみたいだったぜ」
「…」
「なぁ女。お前綺麗な顔してるからよ、あのゴミとも何度かシたんだろう?
なんつったって伊達軍だもんなァ、領主様のお膝元だもんなァ……んン?
あ、あのゴミと餓鬼の目の前でお前を輪姦したら、どんな顔するだろうな、へ、へへ」
「……」
俺が。
俺が今の今まで、此処に来るまで楽観的で居られたのは、
弥吉が死なない安心感と、いつきが何の被害も受けていない安心感、それから、
今まで賊と対峙した時の記憶からの強い耐性を感じていたからだ。
考えてみれば三河の時も、奥州に来る途中の時も、俺はたった一人で
あれらに出会ってきた。それが逆に良かった。俺は誰かを守る必要も心配する必要も無かったんだから。
俺は守られるのは嫌いだ。それは守られている間、何をすべきか分らないから。
守られる、そんな無力な存在のままではきっと俺は何も出来ないから。
でも、守るのも苦手だ。それは俺が誰かを守るにはあまりに小さいから。
俺は臆病者で、だれかの命を背負ったままでは動けないから。
結局、俺はこの村に何が出来たんだろう。いきなりそんなことを思った。
村の人間には警戒心しか持たせなかった。
弥吉に気を使わせた。ご両親にも迷惑をかけた。賊の侵入も防げなかった。
アレクサンドリアフィンドルスゴビッチ政宗にも苦労をかけた。いつきを泣かせた。
弥吉に怪我をさせた。
この世界に来てから、初めて目の前で怪我をしている人間を見た。
考えてみれば、最初にこの世界にきたとき、上杉との戦のとき、その中でそれを見なかったのは
奇跡的なんだよな。俺は今まで戦国の何たるかを脳で知っていても、自身の目で見たことは無かったんだ。
だから弥吉が倒れているのを見たとき、脳味噌がどうにかなりそうなぐらいの衝撃を受けた。
それから赤い血を見ると、良く分らないけれど、喉の奥から何か、
重い塊が競りあがってくるような息苦しさを感じた。
弥吉は生きているのに、涙が出るぐらい悲しくて、でも涙はでなかった。
理解できない精神状態を隠すためになんとか平静を装った。
どうしてこんな事が起こったんだろう。俺は当に疫病神かもしれない。
皆が、お館様が俺を摩利支天だと言っていたが、俺はきっとそんなに凄いものじゃない。
だからといって人間でもないのかもしれない。此処で言えば俺がパラレルワールドから来たので在って、
俺以外の人間は皆普通なんだから。普通に此処で産まれて此処で育ってきたんだから。
俺は俺の所為でその尊い生命活動を途絶えさせてはいけない。
たといそれが俺の存在如何に関係の無いことでも
、俺はこの世界の幸せを消すようなことが起こるのを傍観できない。
守りたいと思う。この世が幸せならいいと思う。悲しむ人が誰も居なければいいと思う。
どうしてそんな聖人みたいなことを今思ったのかはわからないけど。だから、今、とにかく、
「俺、は」
こいつらを消さなきゃいけない気がしてるんだ。
「ああああああーッ!」
喉の奥から、からがら出したような絶叫には我に返った。
そして自分の状態にも違和感を感じる。やけに息が上がっていて、
少しだけ脇腹が痛い。は、遠距離走をしたときみたいだと、息を吐きながら思った。
こちらに来てから身体能力が向上したようだったので、脇腹が痛くなるほど、とはどのぐらいの
距離なのかは分らないが、とにかくにはその行動をした覚えが無い。行き成り走りたくなったからって、
意識の無いうちに走り回っていては、唯の変態、変人に他ならない。何があったのか分らず、
そういえば先刻の絶叫は、と、足元を見た。
「…なん、」
「痛え、痛えよぉぉぉ」
真っ赤だった。
真っ赤なその上に、男が転がっていた。
その男は先刻まで目の前にしていた賊のひとり
のようだった。這い蹲って、匍匐全身の
要領で前進を試みている。しかしその体は傷だらけで、その全身には丁度、が受けたような
傷が在った。誰が見ても分る。『何か』が、あった。傷だらけの男を前に唯立ち竦む。
そのとき、背後からまた似たような声が聞こえた。
混乱した脳内で聴神経とその介在神経、運動神経等が素晴しい働きを見せ、
は弾かれたように後方を見た。
「!!!」
そこにはの目の前に居た男のような状態の人間達が、同じように地に伏せている姿があった。
それらはひとつの道でも作るかのようにして、が立つ場所まで続いている。
仰向けになって荒い呼吸をしているもの、小さく縮こまって震えているもの、逃げようと這っているもの。
目までよくなったわけではないので遠くの方は僅かにしか見えないが、目で少ししか確認できないような
向こう側にも何人か倒れていた。
血の道が続く。
それも、己を目指して。
(何が、起こった)
(俺はどうしてここにいる)
(俺は、何を)
(何を、持っている――?)
は自分の右手に無意識に力が入っていることに気がついた。
何かを持っているようだ。右肩が少し重い。目の前の惨劇にへばりついた視線を
、なんとか引っぺがして、自分の右手を見た。
そして戦慄した。
血に濡れて鮮やかに太陽光を反射するのは、かつていつき門でを襲ったそれだった。
普通の鉄の棒を改造して、鑢のようにした刃渡りは、明らかに
の怪我と一致する。鈍器にもなるが、殺傷能力を極限まで下げている手前、致命傷を負わせるには、
相当な力がいる。そして目の前の匍匐全身の男。息も絶え絶えなその背中には服ごと
背を削り取ったような傷があった。そして残念なことに、にはそれをするだけの力があった。
「おれ、が…」
体から力が抜けていく。両手からも力が抜けて、持っていたはずの凶器は鈍い音を立てて落ち、
手の先から痺れるような感覚がじわじわ進んでくる。は、頭の上から足の先まで続いた一本の糸を
地面から引かれるかのようにして、地面に膝を付いた。間もなく体も地に付くだろうと、自分でも分った。
そして、全てが真っ暗になる寸前、誰かの声が聞こえた気がした。