「お侍が何しに来た」


門の前に立った二人が最初に言われた言葉は、それだけだった。







28 招かれざる、







まぁ、確かにそれだけだったわけだ。

だから俺も弥吉も『えー…何しにきたって言われましても、里帰りとしかいえませんが…』っつーノリで 呆然としていた。そういえば原作でもそういう村だったな。いつき門がどうとか、雪だるまがごーろごろだとか。 それから、いろんなところから農民が出てくるドッキリとか、カカシとか。 雪の下はおらたちの故郷だ、ってお前、それ、フキノトウじゃねーか。 春が待ち遠しいじゃねーか、この野郎。

…一応訊くが、農民って、植物じゃなくて動物だよな?
(ああ、そうだよな、人間だよな。俺、どうかしてたわ)

俺達に入村の目的を聞いてきたのは中年男性で、農耕で鍛えたのであろう逞しい腕に鋭い鍬なんつー 物騒なもんを構えて、此方を睨んできていた。武士がそんなに嫌いなんだろうか。 生憎今は俺も弥吉も、どう見ても農民には見えない服装だ。俺はあの、派手な股引の格好のままだし(着替える気も無ぇが) 、弥吉はもっと悪いことにオールバックのままだ。出発まで時間が無かったから、そのままなんだよ。 どの国にもオールバックの農民なんてのァ居やしない。 でもオールバックがいる軍なら直ぐに分る。伊達軍だ。

…と、いうことで、どう対処すべきか、と思案する俺の隣を動く影。
それは、真っ直ぐにその中年男性のほうへ突進していく、弥吉だった。


「権兵衛どんでねぇか!オラだ、弥吉だ!」


弥吉とそのタックルを正面から受けた中年男性は、諸共に倒れこんだ。



□□□□□□□□□□



「済まねかったなぁ、弥吉どん」

「別にええだ。オラもいけねかっただ!」

「弥吉どんも随分変わっちまったもんだでな!」

「んだ、んだ!」


笑い声が木霊する。

弥吉からタックルを受けた男性は、それが弥吉だと分るや否や、野太い歓声を僅かに上げて村に戻っていった。 俺は如何したらいいか分らずに、まぁ、一応、弥吉を起き上がらせておいた。 砂だらけになるのも構わずに突っ込んで行った弥吉は、砂だらけの見た目とは裏腹に、活き活きとした表情 で、俺に解説する。(律儀なヤツだ)

権兵衛、という男性は弥吉が幼い頃、年の離れた兄弟のようにして育ってきた男性なのだそうだ。 弥吉がお抱えになる時も、ぎりぎりまで、村に残ってくれ、と懇願したひとりだったが、弥吉は家の事情も相まって、 出て行ってしまったのだという。それで、この感動の再会なんだと。通りで警戒心ゼロだったってワケだな。

そしてそれから少しもしないうちに、村人が家からわらわらと出てきた。 結構な人数が要るらしいが、俺が見る限りでは全ての人間が弥吉の帰郷を歓迎しているようだ。 俺は弥吉と一緒に、小さな広場の様なところまで連れて行ってもらった。馬たちはその隅にある柱に 括らせてもらった。 突然の来訪だというのに、沢山の人が思い思いのものを持ち寄って、 宴会でも開きそうな勢いだった。

勢いっていうか、今現在その宴会になってんだが。


「いやー、だども、まさか弥吉どんが還ってくるとは!」

「そんでも、もう明日には帰るだよ、オラたち」

「そっだらこと言わずに、弥吉どんだけでも残っていけばいいでねぇか」


もう暗くなり始めていたものだから、広場の四方には火が設けられていた。 その広場に集まる人の中心の中で、弥吉はとても楽しそうに笑っている。 口調まで綺麗サッパリ変わっちまって、やっぱり故郷っていうのは素晴しいものだと思う。

俺はなんだか、懐かしくなってきた。幸村の騒がしさと佐助の世話焼き、それからお館様のおっきな手の平。 勘助、柚木さん、兵士A BC の皆さん、鶏親子。 お館様が俺の場所を用意してくれた時から、俺の戻る場所はあの 甲斐の館だけになった。 人は誰でも、此処だけは絶対に自分を受け入れてくれる、っていう場所を 欲してるんじゃないかな。そんで、それが懐かしくなって、ホームシックっていうやつになるんじゃないかな。


「弥吉兄ちゃん!」


俺がホームシックについて延々と考え始めそうになったとき、広場に響いたひときわ大きな声。 その場の全員が声の主の方へと顔を向ける。例に漏れず俺もそちら側を向いた。 良く見ればこの広場に集まった人たち、大人だけじゃないんだな。 小さな子供もいるし、中学生ぐらいの少年や少女も居る。 みんなで弥吉の帰還を喜ぶだなんて、よっぽど祭りごとが好きなのか、 それとも当初の想像通り、仲の良い村なのか。まぁ、勿論後者だろうな。 その証拠に何故かうち何人かはお揃いの桃色の羽織を用意していて…って、そういうことかチクショー。


「いつの間に帰ってきてただ!」

「つい先刻だべ。久し振りだなぁ、いつきちゃん」

「会いたかっただよ、弥吉兄ちゃん!」


ひょこひょこ揺れる色素の薄い大きな二つ結びを、歩くのにあわせて揺らしながら中心までやってきたその少女は、 どんぐりの様なまんっまるな目をめいっぱい開いて、弥吉に抱きついた。諸処から羨ましげな声が上がる。 ちょ、こら、感動のシーンなんだろうから、じゃまするんじゃねぇよ、そこのピンク軍団。 叫ぶんじゃないよ、この子の名前を。昇竜拳をするんじゃないよ。


「ところで」


弥吉の膝の上に座ったいつき(あえて俺は呼び捨てる)が、その鮮烈な登場から騒がしさを取り戻し始めた 集団に声を掛けた。静まり返る一同。鶴の一声。あーだから、そこの桃色の人、いつきを拝むな。 この子普通の子だから。無双大蛇に出てくる卑弥呼ちゃんと背格好は同じだけども。あとちょっと 一般の人よりも力が強いけども。雪だるまとか空から降らせたりするけども。


「お前さん、誰だべ?」

「えっ」


言うに事欠いて今更かよ

俺は口を突いて出そうになった第一声を押さえ込んで、目線だけでいつきを見た。
弥吉の膝の上にすわった小6かそこらの少女は真っ直ぐに俺の方を見る。

それを皮切りに、話題は俺の正体について、に移行されたようだ。そういえば誰だ、と いたるところから声が聞こえる。興味と怪訝の瞳が俺を見据える。 えぇぇ、何だ、このアウェイ。俺は一瞬にしてフキノトウ畑の中のトマトになった。 俺のふるさとは空中である。雪の下ではない。…と、そんなことは言っていられない。 今重要なのは、俺がどういう身分であるかだ。甲斐の姫。甲斐の、武田という『武士』の家系の、姫。 わかるだろうが、真実をそのまま言ってしまうわけには行かない。


「えーっと、俺は…、」

「この方は武田の姫さまだ。素晴しいお方なんだべ」


おれははじめてやきちがにくいとおもいました。

案の定ざわつく一同。向けられる視線は明らかに懐疑的なものになった。 ふと隣を見ると、自慢げに胸を張る弥吉の膝の上にいる瞳すら、俺のほうを探るようにして見つめている。 だから言ったじゃん。言って無いけど。もーどうでもいいけど。 (投げやりって言うな!運命に身を任せるのだよ俺は)


「…お侍のとこの姫様が何しにきただか」


権兵衛の二度目の問いかけは、俺だけに向けられた。
何か悪いことでも言ったか、と焦る弥吉を視界の隅に、俺は静まり返った群衆を見つめた。


「なしてお前さんも弥吉どんに着いて来ただか
甲斐のお侍たちが此処に何の用だ」

「み、皆!さんはオラが此処に来られるようにしてくれたんだべ!
悪いお侍の姫様じゃねえだよ、いい人だ!」

「いいや、騙されちゃなんねぇだ、弥吉どん」


呆然とする俺を庇って、弥吉は立ち上がって俺の前に立ち、必死で弁解してくれた。 しかしどうやら皆は聞く耳を持たないらしく、弥吉と同じように立ち上がり、弥吉を押しのけて俺に問う。 いつきも俺の前に立っていた。しかもその瞳を、明らかな嫌悪に燃やして。 座ったままの俺は、自然と彼らを見上げる形になる。


「弥吉兄ちゃんを連れて来てくれた事は感謝するだ
だども、明日の明け方には帰れ」


それだけを言うと、今まで集まっていた村人は解散の合図があったかのようにして、ぞろぞろと帰っていった。 残ったのは俺と弥吉と、端のほうに居るアレクサンドリアフィンドルスゴビッチ政宗達だけ。 弥吉は何が起こったのかわからないで目を丸くしているようだ。っていうか、俺も何が起きたのか、いまいち掴めていない。 西部劇みたいにして根無し草が転がってきそうなぐらいの閑散とした空間で、パチパチいう火を、ずっと見ていた。


「…武士ってキラワレ者なんだな」

、さん」

「いや、いいんだ。こんな風になるんじゃないかって思ってたよ」


だから、お前はそんな顔すんなよ。そういうと弥吉はもっと申し訳なさそうに眉を顰めた。 この村は彼からすれば誇らしい村なんだ。それが俺に嫌な村だと思われているかもしれない、と思ったんだろう。 実際、俺はそんなこと思ってないのに。磁石に負極と正極が有るように、どうやっても同一に出来ないものは有るんだからさ。


「夜は冷えるで、家に入ってくだせぇ」


そんな中俺と弥吉の前方に現れた中年男性は、僅かな微笑を称えていた。



















俺達を自身の家まで案内してくれたその男性は、弥吉の父親だった。 弥吉の年齢のわりには随分と年配なのは、夫婦になってから遅くに生まれた子だからだそうだ。 案内してもらった家の奥で囲炉裏の火を調節する女性もその男性と同じぐらいの年齢に見える。 上品な顔の造りの奥方だ。それにしても、良かったんだろうか。俺はいわば八分にされているんだから、 そんな俺を匿う(?)のは体裁が悪い、とか、ないんだろうか。

俺を家に入れてくれただけでも嬉しいのに、ご両親は俺に飯まで用意してくれた。


「あの、よかったんですか」

「何がですだ?」


思ったより軽い反応に、ビックリする。


「俺をあなた方の家に招待してくださったことです
自分で言うのもなんですが、俺は武士の、それも武田の人間ですよ」

「だけんども、姫さんはオラ達の息子に良くしてくだすったんでしょう」

「いえ、俺は普通に接していただけでして、」

「違うんすよ、俺はそれが嬉しかったんすよ、さん」

「弥吉」

「城のお偉いさんなんて、偉ぶってばかりっすから」


器に直接口をつけてご飯を掻き込む弥吉が、咀嚼も曖昧に話に入り込んできた。 俺は暖かそうな湯気を立てる茶碗に手さえつけないままで、弥吉を見遣った。 口の端に米粒をつけた弥吉の笑顔に少し、救われた様な心地になった。


「うちの弥吉がこんなに好いとるんだから、お前さんは悪い人じゃねぇだ
ほれ、喰うべ、冷めちまったら旨くないだよ」


俺に箸を握らせてくれる、柔らかな女性の手。 この村に来て初めて触れた村人の手は、俺が思っていたよりも、ずっとずっと暖かかった。 もしかしたらちょっとショックだったのかもしれない。武士が嫌われていることじゃなくて、『俺』が否定されたことが。 仕方ないといいながら、心のどこかではなんとかなると思っていたのかもしれない。 恵まれた平和だらけの城の中にいた所為で、久しく現実に向き合っていなかったみたいだな。 こういうのは、ちゃあんと、受け入れないとなんねぇ。

俺は箸を持たせてくれた母君(…という表現で良いのかは知らんが)に礼を述べた。 その礼に対して、何もしていない、と謙虚に微笑むその微笑の中には、やはり親子、弥吉と似た明るさが見えた。 俺は箸を持って、膳を見る。 元来丁寧に飯を喰うなんてのはあまり好きじゃないほうだし、現に囲炉裏をはさんだ目の前の弥吉だって、 堂々と掻っ込んでいるんだから、俺も、と思って胡坐をかいて飯を掻き込んだら、一瞬の驚愕の後、 笑い声が木霊した。

うん、こういう雰囲気のが好きだ。


「姫さんは、まるで田の男みてぇな食い方をするだなぁ」

「んだぁ、オラはてっきり、オラの飯がお口にあわねぇのかと思ってただよ」

「そんなこと無いですよ、っていうか、旨いです、とっても」

「あんた、姫さんがオラの飯を旨いだって!」

「良かっただなぁ」


いい夫婦だ。
弥吉の目も嬉しそうに細まっていた。



□□□□□□□□□□



食事が終わって、ご両親は少しやり残していた作業に取り掛かっていた。 最初は弥吉も手伝うといっていたが、旅人に無理はさせられん、とかいう理由で、俺と弥吉は今、その 作業の様子を遠巻きに眺めている。


「あのいつきって子、随分人気なんだな」

「いつきちゃんっすか?」

「うん」


ボーっとして、眠りかけていた(と思われる)(舟を漕いでいた)弥吉は、目を擦りながらも答えてくれる。 俺達の目線の先では、2人の夫婦が未だ甲斐甲斐しく藁を編んでいた。 木製の窓から覗く外は、もうすっかり更けこんで、小さな虫達が出たり入ったりを繰り返している。 窓から零れてくる冷気に対して、正面の火は暖かい。


「小さいときから一緒だったんです」

「ほぉ、小さいときからあんなに可愛かったのか」

「はは、そうっすね。そのときはまだ、親衛隊は無かったっすけど」

「え、君、もしかして親衛隊に入りたいとかそういう、」

「いや、アレはただの村興しっすから…」

「あんなので興っちゃうんだ村って」


脳内で桃色の羽織が翻った。


「それで、いつきちゃんのことなんすけど、」

「ああ、うん」

「親が居ないんすよ」


そのひと言は一瞬、俺を、音も何も無い世界に連れて行った。 え、と思ってとなりの弥吉を見てみたが、弥吉は真っ直ぐ前を向いたままだ。 真っ直ぐ前を向いているからといって、覚悟を決めているとか、真剣だとか、そんなんではない。 至って『普通のこと』のように、言ったのだ。咄嗟に理解できずに居た俺を残したまま、弥吉は話し始める。


「十数年前ぐらいにここらで酷い干ばつがあって
田や畑で何も取れない年があったんです」


国もそれを案じて沢山の策を練ってくれたらしい。 幾つもの俵や野菜、金。それらが被害を被った村人全員に分け与えられた。 しかしそんなものがいつまで持つか。地主で無い水飲み百姓たちにとって、 僅かな物資など、焼け石に水だった。 なまじ食い物が有る所為で非道になれず、なんとかして家族全員をやしなっていこう、と考える 人々が後を絶たなかった、と弥吉は言った。

だがそれでも口減らしは堪えなかった。もはやそれは暗黙の了解。俺はふと、 以前読んだ本の内容を思い出した。 昔、ある村では、妊婦が産気づいたら、村にいる医師の許に屏風を借りに行ったらしい。 そして出産が済んだ後、その屏風を母子を囲うように、『逆さにして』立てておくのだ。 ここで家の人間は、「母子ともに問題ありません」という。しかし逆さ屏風は死者が居ることをあらわす。 つまり、生まれた子は問題なく始末された、と言うことだ。


「夜が明けた頃に、村の入り口の辺りで赤ん坊の泣き声が聞こえました
小さかった俺でも覚えてます。色が白くて小さい赤ん坊が、ひとりで泣いていて」

「それが、いつき、だったのか」

「はい」


弥吉の村はそこまで被害を被っては居なかったので、そのままいつきを拾い、育て続けてきたらしい。 そして今、村の愛もあってか、いつきは健やかに育ち、村人を元気付ける存在になっている。 思いもしなかった一面。ゲームでは一揆をする子、っていう、表面だけしか見せてくれなかった。 っていうか、あっちは唯のプレイアブルキャラだから、仕方ないのかもしれねぇが。


「武士は、そんな苦しい思いをしないってワケだ」

「い…いえ、そういう訳ではなくて」


つい飛び出た俺の、苦笑交じりの言い方に、批判の色を感じ取ったのか。
弥吉は体ごと俺の方を向き、弁解しようとした。床板が荒めに鳴く。
しかし俺はそれを片手で制した。批判したいわけじゃないからな。


「農民が武士を憎む気持ち、そりゃ最もだ
武士はどんなに辛いといっても、身内を殺めたりするほどじゃない
どんなに生活に窮しても、明日の暮らしを案ずるほどじゃない」

「そうっすけど…」

「俺がもし、この村に引き取られた見做し児だったなら
きっと同じように村を愛して、武士を憎むだろうよ」

「…」

「弥吉?」

「…さん」

「な、何で泣くんだよ」


ぎょっとした。 弥吉は純朴な瞳に透明の塩水を限界まで称えて、俺のほうを見ていた。 しかもお前、涙が落ちるのを我慢しているのかもしれないが、すっごい睨んでるように 見えるよ。怖いよ。俺、お前を苛めた見たいじゃん。ご両親に見られたら今度こそ追い出されちゃうよ。

わたわたする俺をよそに、弥吉は呟いた。


「申し訳ねぇ、申し訳ねぇよう」

「何がだよ…い、いいから、泣き止めっ」

「皆、勘違いしてんだ。さんは善い人な、の、に」(ぼたぼた)

「ひー!あーもう、泣くなよ!ごめん、ホラ、謝ったから!」


俺がジャイアンになっちゃうからね!ホント、お願いだから!のびたー!←
男女云々も気にせずに背を撫で続けていたら、弥吉の涙腺はやっと落ち着いた。
そのかわり、着物の袖で目の潤いを除きながら、弥吉は決意に満ちた目で俺に言う。


さん、俺が皆を説得しますから、残ってください
俺は、皆がさんに謝らねぇと納得できない
それから俺と一緒に城に帰りましょう」


あいのりか。

世間から見て幸福な立場に居る人間が、世間から見て悲劇に苦しむ人間に『苦労が続きますね、なにか手伝えることが在るなら』と 言ったところで、それはただの皮肉や自己満足にしか聞こえない。でも同じ立場まで身を屈めようとすると、 『お前は違うんだからこっちに来るな』と足蹴にされる。長く良く付き合っていくことは容易ではない。

だから、俺の考えは最初から固まっていた。


「いや、明け方には帰るよ」

さん!、」

「……。いいか、まず狼がいるとする」

「狼?」

「おう。んで、ここに雄牛の群れがあるとする」


俺は両手でグーをつくって、傷み始めた畳の上に置いた。 弥吉の目線もそのまま、俺の手を追って、畳の上に縫い付けられた。 火の燃える音と、外の微かな虫の鳴き声と、藁を編む音がごっちゃになって 幻想曲を奏でているかのように、声の無くなった室内に響き渡った。


「たといこれが草しか食わない狼だとしてもだ
雄牛はナリを見て逃げちまうだろう?」

「はぁ、」

「重要なのは俺が武家だってことで、
善い人だとか、悪い人だとか、そんなことじゃねぇんだよ」

「でも、」

「弥吉、姫様、もう寝るだよ」

「あ、はーい」


弥吉はまだ何か言い足りないように口を開けたけれど、丁度良く母君の声が入って、 その発言は、尻すぼみになって消えて行った。俺の言いたいこと、分ってくれただろうか。 俺は武家。いつきたちは百姓。俺がどれだけ哀れんだところで、近づこうとしたところで、 良い結果を呼びはしない。俺としては、弥吉が俺のコトを弁解して、 村の人間から爪弾きにされるのが一番怖いわけだ。


「おやすみなせぇ、姫様」

「おやすみなさい、ご両親、弥吉。良い夢を」

「素敵なこと言うだなぁ……んだ、いい夢を」



















「それじゃあ、お先するけど
弥吉、今日中には帰ってこいよ」


山間から、本当に微かだが、朝日の片鱗が覗きかけている。 たった今は鶏さえ夢の中だ。俺は弥吉にそれだけを告げて、 アレクサンドリアフィンドルスゴビッチ政宗の背に乗った。 因みにご両親はまだ起きていない。明日はこのぐらいに起きる、と言った時間よりも 少し早めに起きたんだ。が、弥吉はしっかり起きていた。


さん、受け取ってください」

「お?お前が作ったのか」

「は、はい」

「へぇ、有難う」


弥吉ははにかみながら馬上の俺に何かをくれた。中身を見てみれば、白い粒々。 不恰好な外装に覆われたそれは握り飯だった。弥吉が早く起きていたのは、 この為だったのか。いちいち可愛いことをするやつだよ本当に。 こういう柴犬みたいに献身的なところなんか、幸村に似てたりする…ホームシックか、俺は。

(主に弥吉の)名残惜しさも程々に、俺は村を出ようとした。
だが、それは第三者の登場によって、中断された。


「弥吉兄ちゃん!」


第三者。それはいつきだった。しかしその様子は、昨日広場で見たときのような、幼い少女のそれではなかった。 急いできたのか、肩は大きく上下しているし、可愛らしい瞳さえ、興奮によって瞳孔を開いている。 頬の辺りを桃に染めるその表情は、緊張にこわばっていた。 何より、その小さな手に握られているのは巨大なハンマー。


「物見やぐらの上に居た六郎どんが見つけた!
今はずっと向こうだけんども、門の先のほうに…」


そこで息継ぎの為に言葉が途切れる。その、ほんの僅かな瞬間に、その余裕の無い瞳と、馬上の俺の目線は衝突した。 だがすぐにその視線は弥吉のほうへと戻される。いつきは最早、俺の存在はどうでも良いような様子だ。 もう村から出て行く人間だものな。関係無いといえば、無いか。

弥吉はどうしたらいいか迷っているらしい。
その剣幕に押されて、いつきを落ち着かせることも侭為らないみたいだ。








「もうすぐ賊が村にせめて来るだ!」


怒りとも焦燥とも、はたまた義憤とも似付かないような、女児の声。
その叫びは、まるで、悲痛さと不穏の雲を連れて来るようだった。