先ほどの鍛練場に舞い戻って手に持つは、先ほどの長棒一本。
向ける視線の先は若きに溢れる虎壱匹。それに向かうは少女一人。
そして少女の後ろには心配性の猿が一匹。
あんな顔ぶれじゃあ、噛み殺されてしまう?
いえいえそんな。そんな筈ありません。
「準備万端!闘争に明け暮れようぞ幸村!」
「言われなくとも参る!殿!」
「何か今日異常に熱いな旦那達……うゎ一句出来た!出来ちゃったよ!」
あの子は少女の皮を被った、狩人なのですから。
14 知らぬ本能に燃え
動きやすい服に着替えてから鍛練場に向かったの入出第一声は、 無双の方の軍神のような台詞だった。ヤル気に満ち溢れたその声にギャラリーから 『おお勇ましい…』やら『様ったら可愛らしい』やらの声が聞こえてくる。 (それを変だと思ったのは佐助ぐらいだ)
「頑張ってくださいませ真田様ー!」
「真田殿ー!相手は殿ぞ!手加減されよー!」
お館様の愛娘と幸村が戦う。その情報は が軽装に着替えるよりもずっと早く場内に知れ渡っていた。 しかもそれは途中でヒレを付けられ捻じ曲げられ、戻ってきた頃には『幸村がに求婚したが 自分より弱い男は嫌だというのために設けられた仕合い』となってしまった。 そのために喚声もこの通り。男女でバラバラ悲喜交々である。
「俺が勝ったら?」
「某と佐助が承諾する」
「そうだ。んで俺がまけたら、大人しく此処に居てやる」
「…二言は?」
「無ぇよ」
身も武者震いに揺すられるような戦いの前の感覚に、と幸村は次第に無口になっていった。 それにあわせて周りも静かになっていく。分身までして警備員の様な役割をしていた佐助は、その 静まり具合を見て分身を消すと信玄の元に戻った。
既に静寂がそこらじゅうに散布されている。 そしてどちらも相手を見据え固まったまま、動こうとしない。 見かねた佐助は懐から小さな手裏剣を取り出した。しゃがんでなるだけ音が立たないように、それでも あの2人には聞こえるように落とす。
かつん、と響くその小さな音を皮切りにして、最初に動いたのは幸村だった。
直立の状態から一気に体勢を低くし前に立つに一線を繰り出す。 それは鍛練として見えるそれではなく、全くの戦場での速さだ。 相手に受けさせる一撃でない、相手を伏しやる一撃。 と幸村を取り巻く殆どの人間がが避けられるとは思えずに、唯目を塞いでしまいたく なった。
「手加減はせぬ!」
それはもう行動で解ることだが、幸村は自分に言い聞かせるようにして一唱した。 しかし息を呑んで静かになった場内にじんじんと声が響き、幾人かの目を塞いでしまっていたのが 手を退けた時、幸村の繰り出した長棒の先にの姿はなかった。
「…それで良い、幸村」
先ほどの大声が霧散した後に凛と響いた声は、震えを欲していた観衆の鼓膜を揺らした。 幸村の肩越しから前へ長棒が延びて、床にその長身をつけている。 背後から長棒を突き立てる、その持ち主は、先ほど幸村と向き合っていたはずのだった。
勢いも良く背を振り返った幸村ととの距離はほんの僅かだったけれど、どちらも 照れたり茶化したりはしなかった。この仕合が両方の信念を賭しているからでもあったが、 幸村の場合、それはの底知れない力の一片を垣間見た所為でも在った。
「く…っ」
飛びのいた幸村はもう一度構えなおした。十文字槍が棒であっただけで、その様子はまるで戦だ。 獣のようにしてを見る目は日頃の幸村とは似ても似つかない。しかしは その目が自分に向いていること、つまり幸村が本気で自分と戦うと決意していることが 何よりも今は嬉しく思えた。(自分の笑い方が少し政宗みたいになっている気がしたけれど考えるのはやめておいた)
しかしそう思う暇もなく幸村は突き出す。 はそれを避けようと身をずらしたが、それを見越して丁度足元に振り下ろされたもう一方の長棒に 足元をすくわれた。しまった、起き上がらないと、と思って片腕に力を入れようとするかしないかのところで 顔に迫る気配。
「……っ!」
少し頭を横にずらすと直ぐ傍に一撃が打ち込まれた。それで更に避けるとそこにももう一本が刺さりこむ。 驚いたことに容赦の欠片もない。 目線を上げると勿論、幸村が両撃を突き刺している姿が頭上に窺える。もう少しでもこの体勢でいると 第二波が来るのだろう。
咄嗟には寝転がってしまっている状態のまま、右手に持っていた棒を床に置くと 頭の傍にある幸村の得物を掴みこんだ。そしてすこし腹筋に力を入れてから、勢い良く足を持ち上げる。 掴みこんで体重を掛けた棒を支点に、まっすぐ伸ばした足をそのまま頭の上へ掃いぬけた。 (少し歪ではあるが)いわゆる後転を成し遂げるのに、ホンの数秒。
幸村もが手を離した瞬間にはもう長棒を床から引き離していた。 は先ほど倒された所に置いたままなので、何も持たないままだ。 しかし幸村はに棒を取りに行くよう促したりはしない。それが戦場だからだ。 もそれは理解できている。
固唾を呑んで見守っている観衆は草。たまに聞こえる衣擦れの音は風が草を弄る音。 そうすれば此処はもう戦場だ。乾いた空気、雰囲気、何ひとつとして変わるところなど在りはしない。 自分と幸村だけが隔絶されて、何処かの焼け野原にトランスしてしまっているのだ。
しかしそんな錯覚もまた――悪く、ない。
はあの感覚をまた思い出した。蘭丸と出会った時の、チンピラと喧嘩をした時の感覚だ。 あの血が吹き上がって体中の毛穴から噴火しているような、凄まじく血の巡る感覚。 どうしたいのか解らないほどにむず痒い、だけど愉快なこの感覚。 感覚は全て同じだが、唯一違うのはそれを感じる本人の感情だった。 今のは前回の様に嫌悪を抱いてはいなかった。寧ろ愉悦。 仲間と真剣に戦う、愉悦。正体まではわからないがそれをヒシヒシと感じ取っていると、 最初のようにしてまた、幸村は向かってきた。
は横転してそれを避けつつ、長棒を手に取り構えた。最初は少し油断していたのだろう。 格段に動きの良くなった幸村は既にすぐそこまで迫っていた。 繰り出された一突きを細い棒の幹で受け止めると、 次は左手の棒が下方から掬うようにせり上がる。 両手で受け止めている手前、どうしようもない。一対ニがずるいと言うつもりは毛頭ないが、良いな…とふと 思った。
(…こうなったら『女』は関係無ぇよな?)
は着物がずり上がるのも気にせずに足を振り上げ、幸村の残った一閃を蹴り上げた。 持ち主の手元あたりを蹴られた棒は、不意を突かれて遥か後方に飛んでから、大きな音を立てる。 幸村は手持ち無沙汰になった片手を残った棒に当てた。つまりこれからは両者の力の対決というわけだ。
ぎちぎちと聞きづらい音を立てて両者が鍔迫り合う。 その音だけが室内を占める永遠の時間が過ぎるのではないかと思えたとき、幸村が口を開いた。 しかし依然として両者の力は入ったままだ。
「殿の国は平和なので、ござろう」
「可笑しい位平和だ。それがどうかしたのか」
「だったらどうして、ここまで強くなる必要が」
「然したる訳なんて無ぇ、よ」
そう言っては重心を左足に、右足をそっと構える。流れに沿った、 それはとても自然な動きだったけれど、幸村は気付いて僅かだが表情を硬くした。 (が片足の不安定で鍔迫り合いが出来ることにも。) しかし策を破られたはずのの口から出たのは憂いでなく歓喜の微笑みだった。 そして本当なら先ほど同様に蹴り上げる所を、素早く幸村の右足の外側へ置く。 その意にやっと幸村が気付いた時、既に彼の視界は傾き始めていた。
「フェイントっつーんだぜ、こういうの」
は幸村の長棒に掴み変えて、左手はそのままに、右手を思い切り半時計方向に振り切った。 上半身の変化に一生懸命に応対しようとする幸村の右足は の足に押さえられている所為で移動できす、 バランスを崩さざるを得ない。 つまるところは柔道の技の様な形なのだが、誰がそんなことを槍の模擬演習で考えようか。 幸村は抵抗する間もなく尻餅を着いた。 それに追い討ちを掛けるように幸村の喉を一直線に棒が横切る。
「そこまでぇい!勝負あり!」
声が高らかと響いた。
「いらっしゃい!」
良い香りのする紅の暖簾を潜った先には、甘い香りの漂う空間が広がっていた。
男が入るには些か可愛らしいというか、女らしい内装だが 幸村は何の気負いもせずにずかずかと入っていく。その後ろに付いてきたのは と佐助だ。久し振りの城下だったので女物の着物を着るのには、まぁ、目を瞑ることにした。
「へぇ、此処がその?」
「旦那が行きたいって言って聞かなくってさ。付き合わせて悪いねちゃん」
「いや別にいいんだけどよ、その幸村は一体何処に…」
「まずは餡蜜をたのむぉう!」
「まずは…?まずは、なのか佐助」
「こんなもんじゃあないぜ…」(遠い目)
早くも席に着いた幸村は嬉々として既に一品目を注文していた。
幸村は毎回戦が終わったりすると此処に来るらしい。 甘いものは本当に普通に嗜む程度に好きであるは、既に餡蜜を味わい始めた幸村の凄まじく幸せそうな 顔をみて片眉を上げた。佐助に勧められて幸村の座っているテーブルに着くと、すかさず店娘が注文を 取りに来る。
「いらっしゃい!何にしましょう?」
「え、俺はコーヒ……ええと、お茶。濃い目で」
「そんじゃ俺様は団子もらおうかな」
「はいよ!少し待ってておくれ!」
「……いいよね若い女の子って…」
「(う、飢えている!)」
佐助は元気のいい返事をして戻っていく若い娘を目で追いながら、中年男性の様な顔でそう言った。 は犯罪者を見る目でそれを見ていたが、ふと目の前の幸村に目線を移すと空いた皿が1つ。 彼は往々にして二品目に取り掛かっていた。虎の若子の胃は一体どうなっているんだろうか。 甘いものが別腹なのは女じゃないのか。いろいろと疑問はあったけれど、 それよりもの気を引いたのは その器の中にある白と桃の混ざった(恐らくは桜の花が入っているのだろう)餅だった。
は身を乗り出して幸村の腕を揺らした。 趣味の邪魔をされて少しムッとなったようだが、 の様子が頗るキラキラ しているので拗ねる気も失せてしまった。
「何でござるか殿?」
「それ頂戴!そのピンクのヤツ」
「ぴんく……ぴんくのヤツ?」
「も、桃色のヤツ」
「ああ是でござろうか、」
幸村がその餅をさじに乗せると、はそれを幸村の腕ごと引っつかむ。 えええ、と幸村が驚いた表情を見せるとは間髪いれずにそれをくわえ込んだ。 咀嚼すると桜の味が広がる。上品な甘さが全体に広がった。季節の甘味は好物といっても良い。 ちなみに某助平猿は店娘たちを頬杖を付いて見つめている。(変態だ!変態がいる!)
「殿!今、そ、某のさじから」
当の幸村は元々ドングリの様な眼をもっと一杯一杯に見開いていた。 引っつかまれた腕は未だにそのままで、が咀嚼する様をじっと見つめている。 その視線に気付いたは飲み込んでから、とっても満足そうに、それから自慢げに言った。
「ししし……真田幸村が餅、討ち取ったり!」
「!」
ちなみに『ししし』は笑い声である。(そこ王子とか言わない!)
それを聞くなり幸村はかっと目を見開いた。 恐らくは武人としてのプライドが彼を甘味の境地から目覚めさせたのであろう。 なぜかは解らないが彼はそのまま椅子をひっくり返して思い切り立ち上がって、丁度その時 の茶と佐助の団子が運ばれてきた。
「あれ。旦那なんで立ってンの?もう帰りますか」
「あ!助平佐助聞いてくれよ、幸村の餡蜜の中の餅がな、」
「すっごく自然だったけど今助平って言ったよね。それ苗字じゃないよ」
ガッ
の中に芽生えた自分に対する新たな認識に少し傷ついた佐助だったが、 分身Aに慰めてもらう暇などは其処にはなかった。幸村が直立のまま、の湯飲みを 掴んでそのまま自分の食道にホールインしたからである。 あー!との声が聞こえる。それと勢い良く飲み収められていく緑茶の、もとい喉の音が やけに大きく聞こえた。
飲み終わった幸村はの前に湯飲みを置き、大きくフン、と息を出してから言う。
「真田源次郎幸村!殿が茶、討ち取ったり!」
「なにおうー!このヤロ…」
「こんな茶屋でも張り合うのかよアンタ等は!やーめーなーさいって!」
「黙れ助平が!幸村の餡子討ち取ったりーい!」
「もう助平そのもの!?」
は負けじと幸村の椀に入っている餡蜜をすくって喉に流し込んだ。 その討ち取り宣言にまた触発されて何かを討ち取ってやろうというキモチに燃える 幸村の目に入ったのは自分の椀と空になったの湯のみ、そして小皿だ。 となれば勿論、彼の手が伸びるのは『それ』であって。
「ちょ、ま、旦那!それ俺様の!」
「構わぬ!佐助の団子討ち取ったりぃぃ!」
「え嘘!旨かった?旨かったか幸村!」
「旨うござった!」
「じゃ俺も!佐助の団子討ち取ったりーぃ!」
「もう一回討ち取ったり!」
「あ!ずるいぞ幸村!じゃ俺も!」
(討ち取ったり!じゃねぇぇよぉぉぉ!)
空になった皿の前にて佐助は本気で辞表を提出したくなったのであった。