俺は手合わせをするように言った後、その輪の中から出て、部屋の端のほうにある柱に身を預けた。
何が起こるか、しかと自分の目で見るつもりだった。
自分から槍を使うなど言うから、使ったことが在るのかとばかり思っていたが、
ときたらなんだ、あの持ち方は。お館様がが農民だといっていたのはどうやら
嘘ではないらしい。(鍬を持つ持ち方でもないが)
見ていられない。それで田でも耕すのか。
すまんがそこの、そうそう、そなただ。にちゃんとした槍の持ち方を教えてやってくれ。
両手で持つ、というところから教えねばならんようだしな。
それに、最初からあの風体では戦いを仕向けた俺が悪者のようだろう?
13 戦に行く、ということ
すぐに両手を挙げ、降参でもするかと思っていた。
あの人懐こい顔でいつもどうり飄々とした口調で、
扱いなれぬであろう長棒を手持ち無沙汰にして。
いやそれはあの人数に囲まれているから当然の事だろう。
武田の肝の据わった女官でさえもあの輪の中に居れば恐れ
怯えてしまうだろう。仕方ない。もまた、か弱い女人なのだから。
しかし、予想外。
何もかもが違った。全てが反例を推し進めていった。
数ヶ月の間に見慣れた顔は見違えるほどに気丈にみえる。
長棒はあれの体の一部のように自在に動き回り、恐れたそぶりも何一つ無し。
あの小さな体からどれだけの力がでるかなんて想像足りえるものなのに、どうも
その想像がつかない。
「これが……」
呟いた後、なぎ払われた兵が自分の下に飛ばされて、よたよた起き上がってから咳き込んだ。
今に向かっていった兵士はそれなりに武功を上げていた者だ。
しかしはその刃を難なく除けて、しかも長槍を使うこともなく足でもってその
武士を蹴り上げた。しかもその力といったら。兵士は宙を飛ばされて、
鍛練場の壁にぶつかってからドサリと床に伏せた。
「もっと大勢で向かって来いよ!」
今目の前で舞っているのは一体誰だろう、とふと思ってしまう。
これが今まで顔をあわせて来たなのか。いやそんなわけがない、これがであるものか。
ここまでの人数をいとも容易く…。
勘助の中の『像』はもっとドン臭くて、面倒くさがりな娘だった。
一緒にニワトリの小屋を作ったときも、漢文の勉強をしたときも、に
強さの片鱗を見ることがあっただろうか。いや、そんなことは一度としてなかった。
寧ろ自分が助力することばかりで。
自分よりも弱い者、それがへの認識だったのだ。
「いっちょあっがりィ!」
その声にハッとなった勘助が最初に見たのは、長棒を勢いも良く床に垂直に降ろし、
伏した兵達の真ん中に立ったまま短く息を吐いただった。息も余り上がっていないままで、
己の額に浮かんだ数滴の汗を拭う。あっちぃーと苦笑いじみた口調で言いながら着物をはためかせる。
(なんと品のない…先が思いやられる)(先?俺は何を言っている)
その姿はもう、いつもどうりのであった。
□□□□□□□□□□
「さっきの人達、大丈夫かな」
は手拭いで顔を拭きながらポツリと呟いた。
勘助はの凄まじい戦いぶりを見て、信玄に言い添えする気になってくれたようだった。
それで今しがた、出掛けていたのから返ってきたということを聞き、
信玄の居る部屋まで向かっている所なのだが、勘助は足早に進行方向を見たままで返事をした。
「武田の兵はお前にやられた程度では死にはせん」
「そりゃー解るけど。見ただろ?あの痛そうな顔」
「心配なら看病したらどうだ。皆も喜ぼう」
「ばっ…!そんな女みたいな真似できるかっての!」
「(女みたいな真似も何も、お前は女だろう…)」
大丈夫と言ったものの実際は少し、不安でもある。
先ほど圧勝したは、勘助の思い描いていた『強い』をずば抜けた強さを見せた。
目を引いたのはその力、つまり筋力だ。片足で軽々と人を蹴り飛ばすなんて、並の人間に出来た話
ではない。
(唯の農民ではあるまい)
考え出したら止らない、ノンストップシンキングの勘助は完全に自分の世界に入り込んでしまった。
今の彼の脳内分布図でもあるのなら、『の正体について』がきっと八割近くを占めていることだろう。
は何処かを熱心に見ながら考え事をする勘助を見て、週に一度のシンキングタイムが来てしまった
ことを悟った。(こうなるともう、口を開かない)
「勘助ー」
「……」
返事がない。唯の勘助のようだ。
詰まらなさそうに周りを見ながら歩くの眼に朗報が入ったのはそのときだった。
門の近くに見える二人組は、恐らく自分の良く知った人物だ。
「そうか、もう帰ってたのか!」
思い切り手を振ってみれば、相手もに気付いたようだ。
土煙を上げんばかりのスピードで走ってくる二人組は見紛う事なきフライングモンキーS.Sと
タイガージュニアY.Sであった。
何かをゴールに競争しているような感じがしないでもない。
(ぜってー競ってる!顔必死になってる!)
(うっわしかも幸村こけた!佐助の足にしがみついてる!)
「ゼェ…ゼ…ゲホッ」
「ハァ……ハァ…ゴホッ!ぐ、ハァ…」
「まぁなんだ……お疲れ様、です」
最終的にの元にやってきたとき、佐助と幸村の格好はそれは酷いものであった。
とくに幸村。ウエスタンのあの馬で引きずり回すやつを終えた後の様な服の汚れ様。
それなのに丸出しの胸板は傷1つ付いていないのが恐ろしい。
佐助のほうもなんかもう全体的に、みすぼらしい。
しかも両方、可哀想なぐらい息が荒い。
「何時帰ってきてたんだ?」
「……少し、前でござる」
正しい呼吸の仕方を思い出した幸村だったが、まだ幾分かつらそうなので背中をさすってやったら、
あの童顔スマイルでお迎えされたので目が眩しかった。
いつもはベタベタしてくる佐助であったが、今回は髪の手入れにいっぱいいっぱいのようだ。
あの迷彩ポンチョから手鏡らしきものを取り出して鼻歌交じりに手櫛でキメている。
「ああそうだ。そうでござった。
殿に土産を持ってまいったのでござる」
大切そうに手に持っていた袋から出したのは、真っ赤な地に金の模様が掛かった櫛だった。
恐らくは随分と値の張るものだろう。一体何処でこんなものを…と考える脳もあったけれど、
やはり自分のために土産を買って来てもらえるのは嬉しいことだ。
はその櫛を受け取った。
「これ……こんなもの貰っていいのか?」
「某が殿にお渡ししたく買ったものでござる。
何の気兼ねもなしに受け取っていただけると
ありがたい」
「そっか、ありがとう。うれしい」
の返事と笑顔にノックダウンされた幸村は、そんな、礼など、礼など要りませぬ、しかしどうしても
というのならこの頬に殿のくち(以下略)と正面で言えない欲望を撒き散らしながら縮こまってしまった。
が塩を掛けられたナメクジを見るような心境でそれを見ていると、
次は佐助がに袋を手渡した。髪ももう、もと通りだ。
「開けて見てよちゃん。俺様が選んだんだから、気に入ると思うぜ?」
大き目の袋の中に入っていたのは、薄桃色の着物だった。
佐助にしてはそれなりに趣味の良い色合いをしている。
地より少しだけ濃くなった色の桜のハナビラが桃色を飾っているのもまた、趣深い。
「へぇ。良い趣味してるじゃん、佐助」
「あ、やっぱり?喜んでもらえて光栄ですよっと」
「お前も普通のセンスしてるんだから、」
上杉のかすがちゃんにもこんな風なの送れば良いのに、と袋の中に詰まった着物
を広げながら言おうとしただったが、その仲間思いな発言は悲しいかな途中で止ってしまった。
その理由は目の前にある(自分でもセンスが良いと思った)着物であるわけで。
「丈短ッ!」
何を隠そうその着物の丈は現代の女子高生のアレをも軽く凌駕する短っぷりだったのである。
こんなんではハンカチを落として拾おうとするだけで露出狂だ。軽く犯罪の色を
におわせるルックスの着物から佐助へと視線を移すと、佐助は既にがそれを着たときの
ことを想像してだろうか、変に口端がゆがんでいた。
「こんな破廉恥着物、良く売ってたな…」
「店主に手裏剣をちょっと見せたら直ぐに作ってくれてさー。
俺様ってツいてるよね!」
「お前それ明らかに脅しだろ!本当に悪だよ!悪が流れ込んでくるよ!」
本当はこんなもの着れるかと言いたかったけれど、流石にそれは可哀想な気がしたので
、いずれ着るよ、というと、佐助はえへへ有難うと満足そうに笑った。(そうやって笑う分には
格好いい部類に入るんだろうがなぁ…)(何分台詞がな。えへへって…)
「殿は何処に参られておったので?」
「俺は勘助とお館様のところに…って勘助は何処だ」
「山本殿なら先に行くって言ってたよ。うつろな目で」
「(恐ろしやシンキング勘助…)」
「ならば某達と一緒に参られぬか殿。
某等も殿同様、お館様の元に参る途中だったのでござる」
「んじゃ一緒に行くか!」
そう決まってから佐助がと手を繋ぐと、それを見た幸村が某も、と赤面しながらも
余った方の手をとった。一見しては2人よりも背が低いので、
凹の形になって真ん中のは少し窮屈だったけれど、こんなに長く話すのも久し振りだったので、
なんだか楽しく思えた。
佐助があの着物着てったらいいんじゃない、と提案したけれど、丁重にお断りいたしました。
「お館様ー?です」
「か!入れ入れ」
既に到着していた勘助はもう、シンキング中ではないようで、左側に座って
視線だけをたちのほうに向けていた。
信玄の前にはと佐助と幸村、三人で座った。(しかも
が離すまで手を繋いだままだった)
「、朝は空けてすまなんだな」
「え?いや、大丈夫でしたよ。勘助も居たし。……な?勘助(小声)」
「少し静かにしろ」(小声)
「そうか、それはよかった!
勘助や、お前はの守に向いておるかも知れんのう!」
「滅相もございません…」
「ところで、先に勘助がわしに言うたことじゃが」
「!はい」
信玄と正面で目が合って、は背筋をピンと伸ばして返事をした。
と信玄はじっと見詰め合ったままだ。
信玄公の目はビー玉のように澄んでいて何か見透かされているような
気がするけれどは負けじと見つめ返す。
「良い。戦に行きたい、それがお主の望みなのならば。」
は恐らくは否定の言葉が出るだろうと確信していた。
それでもなんとか食い下がれないかと言い分を考えていたのに、長い沈黙の後の
万遍の笑みはの想像と全く違っていた。呆気にとられたは肩が
カクンと下がって実に情けない格好になってしまった。
「な!待ってくだされお館様!」
「ちょ、大将!」
その言葉に一番反応したのは佐助と幸村だった。
が戦に行くのを許可されたという事実、佐助と幸村は動転して信じられない面持ちで、
座していたのから立ち上がった程だ。
勘助はその反応を見て、申し訳なさそうに目を伏せた。
実はを戦に行かせないように仕向けさせたのは他でもない、幸村と佐助だったのだ。
言ったのは信玄ではない。お館様は殿の意思を最優先するだろう。そういうお方だ。
だから頼みたいことがある、と言ったあの時の目は、本当に大事なものを守りたいと思っている
目だった。
しかし今の勘助の中では、その思いよりもの意志が勝っていた。
の目に宿る炎を前にしては、幸村の意志でさえも消えかけた蝋燭の炎のように見えてしまう。
恐ろしいことだ。
勘助は両雄の凄まじいまでの反論に驚いたに目を遣った。
「な、なんでお前らが反論するんだよ」
「するに決まってるでしょ」
「そうでござる!」
小さな呟きに逐一猛反発されたものだから、も少しカチンと来たのだろう。
主の御前であることも忘れて立ち上がっている2人同様に立ち上がると、静かながら噛み付くようにして
反論した。
「俺は俺の望みで行きたいって行ったんだ。
それにどうしてお前らが何か言う必要がある?」
「殿は本当の戦場という物を知らぬ。それゆえに行きたいなどといえるのだ!」
「今に後悔することになると思うけどね。そんなに良いトコじゃないよ?」
「知らないままで居て良い事と悪い事があるだろ。
少なくとも戦は無視できることじゃない、俺にとっては」
「ちゃんは武田にとっても大切な人間だから、
危ない目に会っちゃいけないんだ」
「戦場になれば某たちも何時でも守って居れる訳ではござらぬ…!」
「俺は」
そういうとは行き成り胸倉を掴むようにして幸村の上着を掴んだ。
その行動に幸村は勿論その場に居た全員が我に帰って唖然とする。
仰け反る勢い余って倒れそうになった幸村を、服を引っ張ったまま支えてから、は
少し早口で離し始めた。
なんとか平静を保とうとするその様子からは非常に微かだが怒りが窺える。
「じゃあ幸村、この傷は何処でつけた?この傷は?その火傷は?
きっと今度の戦でもお前は怪我をするんだろう。それなのに城に居ろってのか!
お前らを傍で守ることも出来ずに、この中で祈る事しか出来ねぇってのかよ!」
「、殿」
「なぁ、解るだろ?俺ァお姫様でも何でもねぇンだよ。
神様に頼み込んで勝鬨を待ってる様な健気さなんて無ぇんだ。」
「……」
「悪かったよ、急に掴んで」
そういっては幸村の服を離した。
もすぐに正気に戻ったのだが、場は既に騒然となっていて、頼みの綱の
信玄までもが何かを考えている。
その左隣の勘助も押し黙ったままで、流石にも焦りだしたが
今言ったことを訂正しようとは思わなかった。
(守られるのは嫌いだ。)
自分を守った所為で消える奴等が居ると思うと、反吐が出る。
(俺なんかを守ることを生きる目標にするやつの気が知れない)
守られている間は最高に惨めな気分になる。
誰かに頼って生きていくこと、それはの最も嫌う生き方だ。
だからといって幸村たちの自分を思う気持ちが嫌なわけではない。
寧ろ嬉しい。だからこそ傍に居て、自分は無事だと直接伝えたい。
遠く離れて心配しあうことのなんと切ないことか。
「…一緒に居たいだけなんだよ。本当に」
が呟いた一言で、信玄の意は決した。
「よぅし決めた!」
信玄の手にあった扇子がパチンと音を立てて閉じたのと同時に、信玄は立ち上がった。
部屋の中にいる4人中3人が立ち上がった所為で、勘助はえぇー、という顔をしたが
自分まで立ち上がるわけにも行かず微妙な表情のままで居る。
信玄は扇子を等に向けて、真剣な、けれど少し楽しむような顔で宣言した。
「、幸村よ」
「はい」
「はっ」
「不本意であろうが、これから仕合いをせい。が勝てば幸村、お前は手出し無用!
そして良いか、両方の仕合いを見納めるは佐助の仕事じゃ」
「承知」
喧嘩両成敗とでもいうのだろうか。大声で言い切った信玄はそれだけ言うと、と幸村の
頭を撫でてから、出て行った。そこに残ったのは佐助と幸村、、勘助。
幸村は信玄の後姿を追うようにして廊下まで出て行ったが、直ぐに戻ってきた。
は何も言わずに頷いていたが、決心したように一気に息を吐いてから顔を上げた。
そこには他の3人が心配していたような憤りも、悲しみも浮かんでは居なかった。
その代わりに浮かんでいたのは、野性的な芯を擽るような、
そんな不敵な笑み。
「ゆーきむらぁー!聞けぃ!」
「なっ!なんでござるか殿ぉー!」
「俺はなんとしてでもお前に勝って見せる!
んでお前等に認めてもらって、ぜってー戦に行く!」
それから!
「手加減なんかしやがったら、そん時ァ容赦しねぇぞ!」
は部屋から出て行きながら付け足した。勘助もについていくようにして立ち上がるなかで
幸村と佐助だけがじっと定位置に納まっている。立ち去る瞬間、
視線が合った佐助にもその笑みを向けたものだから、魅惑された佐助がふらふらについていってしまって
幸村は独りになってしまった。
しかしそれは還って、考え直すいい雰囲気を作った。
遠のいていく声を背景に幸村もまた、決心をしたのであった。
(何処触ってんだお前は!という声が聞こえた)(佐助はまた破廉恥なことを…!)
「思っておらぬ!う、うらやましいなど!」