何を言われたのかは覚えていないけれど。
07 シロウサギを辿って
「…ン」
「!!目が覚めたのねっ!」
は電車よりもずっと微かな振動に揺られ、少しずつ意識を覚醒させられた。
未だまどろむ視界。飛び込んでくる微かな光に眉根を寄せて声を上げると、
上のほうから良く知った娘の声が聞こえてきて、一気に目が覚めた。少し大きな震動の後、
目の前には亜莉子。だけれど、おはよう、の1つでも送ろうかと思いつく前に、
は亜莉子に抱締められていた。
「おやおや。どうしたんだい。亜莉子は甘えたさんだね!」
「ったら、冗談言ったらダメよ、本当に心配したんだから…」
「そうだよ。アリスは僕の肩の上でひょこひょこしていたよ」
「チェシャ猫は黙ってて!」
「…ヒョ、」
「もおー!チェシャ猫!」
「これ、喧嘩はいけないよ」
「だって、!(ぷー)」
「……(にぃぃぃ)」
因みに舞台はチェシャ猫の手の上。
男性(人間ということすら疑い始めたが、それは伏せておいた)なのだろうに、その割には細い指が
丁寧に10本並ぶ、はその素敵なベッドの上で眠っていたらしい。
それを亜莉子はずっと、チェシャ猫の肩の上から見ていたとか、居なかったとか。
少し窮屈ではあったが、手の平に2人で座る。
進行方向に広がる景色はいつも見慣れている道のはずだが、やはり小さくなった所為か、
どこか別の場所のようにさえ……いや、違う。普段の通りとは完全に違うところがあった。
1人として人が居ない。車は有るのに、人は居ない。
は案外この辺りを良く通っていたので、この時間帯、
誰も居ないなんて事が無いことは知っていた。やはり何か、妙なことが起こっている。
これが夢だったら、どんなに。は自分達を支えてくれている
手の、僅かな暖かさを少し疎ましく思った。
そしてふと浮かんだ疑問をそのまま吐き出す。
「仕立て屋の件は一体どうなったんだい?」
「ああ、あの洋服につくダニどもね」
亜莉子に一体何があったというんだ
口を突いて飛び出しそうになる言葉を一生懸命に抑えながら、ああ、そうだよ、と返した。
亜莉子は終止笑みのまま語る。が倒れた後、一時騒然となった現場だったが、チェシャ猫の機転により
『シロウサギ(のカケラ)を追いかける話』にスポットライトが当てられる。
そのシロウサギ、人参は食べないが、アリスなるものなら食べる、らしい。
そしてここで亜莉子は一拍取った。もう1度に抱きつき、囮捜査に借り出されるかと思った、
と鼻を鳴らす。チェシャ猫の手から落ちそうになったが、なんとかはその頭をなでた。
はそこでふと、あの何処までも続く廊下で出会ったウサちゃんのコトを思い出した。
まるで成人男性が着ぐるみを着たかのような体の、ウサギ。(と言い切る時点で軸がずれつつある
んだよね)(ああ、知っているよ)今まで見た中では、シロウサギ、で合致するのは、
アレしか居まい。アマゾネス亜莉子が追いかけていってしまってからは、
亜莉子とも、そのウサちゃんとも別れてしまって
、すっかり忘れていたものの、彼がシロウサギなんじゃないのか。
それを言うと、亜莉子は頷いて肯定した。
「まさかあの旨そうな獲モn、ウサギがシロウサギだったなんて、驚いちゃったわ
でもね、アレは本物じゃなくて、カケラ?なんだって
確かにね、追い詰めた時、消えちゃったの」
「獲物って言っちゃった方がいいよ、そこまで来てしまったなら。
それじゃあ私達は本物を探さなきゃならないんだね」
「そうなの。見当も付かないのに!」
「ガンバレ、アリス」
「ガンバレ、亜莉子」
「なによ!まで!」
亜莉子が被服室から出て行こうろとしたとき、親方に呼び止められたと思うと、
白い布を上納された。親方とハリーの2人で布を差し出しているのだが、二人とも腰が引けてしまって
中々可愛そうな格好である。親方の方はが起きないか気になって仕方ないかのように、
チェシャ猫の手の中で眠るを何度も見る。そんなに怖かったのだろうか。
あまりに頻繁に見つめるものだから、最後はチェシャ猫の手によって針を刺された。
大分薄れてきた(…と、言うよりは、『慣れた』のよね)
違和感とともにそれを受け取ると、それは純白のナプキンだった。それも、その端のほう、
店名の文字列がが金の刺繍で丁寧に施されていた。
驚いたことに、それは身だしなみに気を使うシロウサギの、記憶のカケラ
(カケラという割には行動もするし、立派な
耳も動いていたが)が落としていった
ものらしい。これといった手がかりも無い。
そうとなったら、次の目的地は決まったようなもので。
「それで、今向かってるの」
「ホテル・ブランリエーヴル
ほお、有名どころだね」
「は行ったことがあるの?」
「駅前だからね、見つけやすい
何度かは行ったことがあるよ」
「ふぅん、私も行きたいなー」
「いいよ。一緒に行こう、今度でいいのなら」
「一緒、に行こう?」
「そうだよ、チェシャ猫。3人で行こうか」
「料理にアリスは出るのかい」
「亜莉子は料理でなく、お客だよ」
「オキャクサマは、カミサマです?」
「何処で覚えて来たのよ、それ」
食料、いや、亜莉子の乱入によって暗黒会議が終了した。
(だって、私が食料だなんて)(もそんなに平然として!)
自動ドアの開く機械音に顔を上げてみれば、そこはもう無人の宿泊施設だ。
勿論エントランスには誰も居ない。シャンデリアから発せられる
豪華な光だけが降り注ぐそこは、妙な静けさと清潔さとがあいまって、
とても不気味だ。
「やはり、誰も居ないみたいだね」
「ほんと。不気味だわ」
亜莉子とはチェシャ猫の両手の上で不審がる。
だがチェシャ猫はその不気味さなど微塵も感じていない様子で、
(いや、本人が不気味だから、さしたる問題も無いのかもしれないが)
今度は会話に入ることもなくエントランスを横切っていく。
チェシャ猫が無口なのは今に始まったことではないのだが、
あまりに干渉してこないものだから不安になった2人は顔を見合わせる。
そして丁度良く聞こえるBGM。
がっしゃぁーん
ガラスの、いや、食器、或いは焼き物の割れる音が、遠くに聞こえた。
音源を辿ってみるが、どうやらそれは――
「もしかして、向かってる?」
「…そのようだね」
見上げた先のチェシャ猫の三日月は、今までと同じように釣りあがっていた。
『レストラン・イナバ』
美しい装飾を模った看板は、その名を名乗っていた。
この時間帯なら少し早めの夕餉を楽しむ人々が居てもいいのだろうが、残念ながら
、勿論、『人』は居ない。
がらんどうを直進し、と亜莉子は進んだ先にあるテーブルに降ろしてもらった。
目的地に着いたことは明らかなのだが、亜莉子は真っ当に喜べない気分だった。
それには幾らでも理由があった。自分が小さいこと。
真っ白だったはずのテーブルクロスが食べ溢し云々でマーブル模様になっていること。
がつがつ
「そして目の前に、巨大生物が居ること」(ぼそ)
「どうしたんだい亜莉子?」
「、私もう限界。こんな世界変えてやる。
私が新世界の神になってみせる」
「もしかして特殊なノートが御入用かな?」
「そうね、それからとっておきの死神も欲しいわ」
「おやおや、それならここに居るじゃないか!
立派な番猫だよ。ね、チェシャ猫や」
むしゃむしゃ
「なんだいクロネコ」
「ああ、違うの。猫じゃダメよ
それにチェシャ猫、林檎食べないだろうし」
「そう?それは残念だね」
「?残念だね、アリス」
「そうね」
ごくん
相変わらず優しい微笑をする。亜莉子はその落ち着きを少しだけでもいいから分けて
欲しいと思った。何を隠そう、目の前には『居る』のだ。とてつもなく大きな、それが。
それ、と言ってしまうのは、それが『何』か分らないからだ。視界に入りきらない大きさの
何かが、一心不乱に、お世辞でも綺麗とは言えない音を立てて、何か食べ物らしき物を
貪っている。これで動転しない方が可笑しい。亜莉子は、落ち着いて、はぁこれは、すごい、とまで
言ってのけるの横顔を盗み見て、肩を落とした。
(は可笑しいのよね、そうだったわ)
はクスクス笑う。
「随分規格外なマダムだね」
「え、女の人だったの?ていうか、人なの?」
「亜莉子や、もう少し下がってみてごらん」
「え?う…うん」
そして目に入った光景に、亜莉子の口は、ぽかぁん、と開いたっきりになってしまった。
天井にまで着きそうな立派な体躯を持って、髪を結い上げ、常人が来たのなら美しいだろう
花嫁衣裳を身に纏い、真珠のネックレスでパンパンに膨れ上がった首を絞めながら
素手で料理を鷲掴む。辛うじて人、と言い切れるか、言い切れないか、の
ギリギリのところを行ったり来たりする『女性』がテーブルの前を陣取っていた。
あまりの衝撃に呆けたままになった亜莉子の肩を引き寄せながら、はチェシャ猫の
方を見遣った。相変わらず何処を見ているかも分らないフード姿のまま、後ろにひっそりと
立っている。
「チェシャ猫、彼女は一体どなたなんだい?」
「公爵夫人だよ」
「なるほど。高貴な方なんだね」
「そうだよ。クロネコはもっと高貴だけどね」
「私も高貴なのかい、それは随分変わったお世辞だね。
…それじゃあ公爵は何処に?わかるかい」
「公、」
「、。ねぇ、見て」
「爵は、」
「ん?どうしたんだい亜莉子
…すまないね。少し待っていておくれ、チェシャ猫」
「わかったよ」
おっかなびっくりで声を小さくする亜莉子。が視線を向けた時は、丁度
公爵夫人が食べ残した料理を皿ごと頬張った瞬間だった。ばりばり、と陶器の割れる音が
口内からくぐもって聞こえる。
ゴム製のスリッパやガラス、それから土やらを自ら食べようとする人間も
地球上には確かに居るが、これほど一斉に食堂に流すなんて
(しかも禄に咀嚼もしないで)人間業ではないだろう。しかし今日、今までに、
沢山の超常現象たちと出会ってきた亜莉子とだったので、
精々目を見張る程度で、声を上げずに済んだ。
「…まぁ、悪食だということはわかったよ」
「その上、口の中がとっても丈夫だって事もね」
「公爵夫人だから、大丈夫だよ」
「それもそうか、公爵夫人だものね!」
「そうよね、公爵夫人だもの!」
もう疲れたらしい。
「クロネコ」
「わ」
あらゆるツッコミを放棄しつつあった2人の閑散としたテンションを、
チェシャ猫の指が霧散させる。その指は行き成りを優しく引き寄せて、
自分の方までつれてくると、緩慢な仕草で小さな両耳を塞ぐ。
キョトンとする。亜莉子は、に何するの!とばかりにその手を離しに掛かったが、
公爵夫人の方を見るの眼が行き成り見開かれたので、つい、手を止めた。
すると瞬間的にの手が亜莉子の耳に伸びる。何が起こったかわからずに、そのまま両耳
をふさがれたのだが、次の瞬間、その意味が分った。
りいいいいいぃぃぃぃん!
半端でなく大きな音が空間全体に響き渡る。
亜莉子はの方を向いたままなので、何が起こっているのか全くわからないのだが、
には分っているようで、眼球がキュルキュルと何かを追っている。
そのせわしない瞳を見つめていると、ふとその所有者と目が合って、にこ、と微笑まれる。
意味もなく頬が熱くなった。余韻も冷めたころに、両者の耳は開放された。
だが、先ほどの音が終わったと思いきや、厨房らしきところから盆を持った給仕らが
覚束無い足取りで出てくる。しかもそれが子供ぐらいの大きさのカエルで、
立派にサービスマンの正装をしているのだから、益々驚くばかりだ。一体何があったのか。
に縋るように目を向ける。
苦笑するの言葉で、何があったかやっと理解した。
「いやはや、大げさなオーダーだった
亜莉子や、耳は大丈夫かい?
行き成り塞いで悪かったね」
「ううん、いいの。有難う
ちょっと耳がビリビリするけど」
「おや、亜莉子の耳殻を痺れさせるだなんて。
公爵夫人は一体どんなに偉い身分なんだろうね」
「ナンダロウネ」
「……」
亜莉子はの背後に一瞬、般若の面を見た。
般若の面を引っ込めていつもの福面に戻ると、はチェシャ猫に
お礼を言う。鼓膜の(損傷を防いでくれた)お礼を。
亜莉子はふと、どうしてチェシャ猫がを真っ先に守ったのか、不思議に思った。
決してうぬぼれでは無いのだが、今自分の居る世界は『アリス』という人物が絶対の
好感を伴うものだと、分っている。それなのに、先にを、『クロネコ』をたすけた
理由は…?
「クロネコ」
「なんだい、チェシャ猫」
「僕にお礼をおくれ」
「お、礼?」
こ れ か
チェシャ猫はしゃがみこみ、両手をテーブルの縁に掛け、と向き合って、ゆっくりと頷いた。
は突然の申し出に少し困惑し、言葉を濁す。
チェシャ猫の言動云々よりも、亜莉子は、それを珍しい光景だと思った。
学校生活でのは、誰に手伝ってもらうでもなく、助けられるでもなく、寧ろ
人を手伝い、助ける立場だったものだから、『礼』をせがまれたことなどないのだろう。
言葉に詰まったその様子が思ったよりも可愛らしく、つい、目の前の一匹と1人の動向に
注目する。
程なくして動いたのはチェシャ猫の方だった。
先刻よろしく両手で優しくに触れると、その背に指を廻す。
精巧なフランス人形に鑑定者が触れるようにして自分の範囲にを固定すると
、まず少し顔を近づけた。視点でいけば、青白い皮膚と赤い半月が近づいてくるのだから
、亜莉子はそれを想像するだけでも怖いと思ったのだが、どうやらはあまり気にしていない
様子で、その近づく鼻に触れさえしている。
(本当に肝が据わってるわ、ったら)
チェシャ猫は肉食獣を思わせる鋭い歯の奥で、真赤な舌を躍らせた。
そして、
「君を食べてもいいかい、クロネボ」
亜莉子の華麗なハイキックが、チェシャ猫の頬に突き刺さった。
その殆ど走り高跳びに近い高さのハイキックを振り抜いて(物理的に無理とか、言わないの!)
地面、もといテーブルに着地した亜莉子は、無意識だろうか、拳を鳴らした。
まさかの半エマージェンシー。
人間の口の端が吊りあがるのが笑顔というのなら、これはなるほど笑顔かもしれないが、
全体的なオーラはさながら縄張りを荒らされた百獣の王の様である。
亜莉子はとチェシャ猫の間に入り込むと、腰に手を当て眉根を寄せる。お説教タイムのようだ。
因みにチェシャ猫の頬は未だに凹んだままだ。
(ボブサップもビックリの破壊力)(さすがは亜莉子だね)
「ダメー!を食べるだなんて、絶対にダメ!」
「どうしてだいアリス」
「どうしてもいけないことなの
食べられたら、痛いわ」
「痛くないよ」
「ううん、痛いわ。チェシャ猫は食べられたことが無いんでしょう?
だから分らないはずだわ。でも、きっとすごく痛いのよ」
「クロネコは大丈夫だよ、僕等のアリス
最初は痛いけど、だんだん良くなっドゥ」
「ええいお黙り!」
(なんだか今、聞いちゃいけない言葉が聞こえた気がする!)
爆弾発言の前に、店内2発目のジェノサイドキックをぶちかましたバイオレンスな亜莉子は、
迅速な行動で猫の魔の手からを開放した。あわや大惨事
(おや、大惨事だったのかい)(は知らなくても良いのよ)
だったというのに、自体は全く身の心配をしていないらしい。
疲れて肩を下げる亜莉子を見て、はカラカラ笑った。
「本当に食べられはしないさ、安心おし亜莉子」
それが大変だって云ってるんだが。
先刻の一件はが無事だったので一件落着とし、と亜莉子は
気を取り直して今置かれている状況を把握することにした。
猫の頬は未だに凹んだままだが。
見回す限り、唯のレストランだ。
相変わらず公爵夫人のバルーンの如き体が1つの小山のように存在して、
それから、カエルがヒィヒィ言っているものの、唯のレストランだ。
だが此処に来たのは何故だったか。シロウサギの手がかりを探すためではなかったか。
それならば別の誰か、話の通じそうな者(人間と限定しない)が必要である。
困窮してしまって亜莉子がを見遣ると、は公爵夫人の対面側をじっと見ていた。
視線を追ってみてみれば、そこには殆ど手を付けられていない料理達。だが
その隙間に隠れるように(本人にそういった魂胆はないだろうが)誰かが
伏しているのを発見できた。
「誰かしら」
「公爵だよ」
間髪居れず(コンマ5秒ぐらい)に返事をしたのはチェシャ猫だった。
相当言いたかったらしい。先刻、に少し待って、といわれた時から
ずっと待っていたらしい。それを悟ったが振り返って、
チェシャ猫によく待っていたね、と言うと凹んでいた頬がポン、と復活して、
口元はもっとにぃぃぃ、と弧を描いた。どうやら褒めてもらうのが好きなようだ。
「公爵なら今の状況も説明してくれるかもしれない
折角倒れてくれているのだし。行ってみようか」
「そうね。そうしましょう」
辛うじて周辺だけは白いテーブルクロスの上を、歩いていく。
鈍い靴の音が僅かに響くが、それも公爵夫人の食事による騒音にかき消される。
は隣にいる亜莉子をチラリと見た。亜莉子の着ている服はとても似合っている。
まるで亜莉子のために作られたかのように。自分の服も、驚くぐらいに動きやすい。
それに自分と亜莉子、チェシャ猫との三人組がとても心地良い。
危機的状況下に置かれた人間というのは概して誰かと一緒にいれば安心するらしいから、
当然かもしれないが。
「なぁに?」
「え?」
「そんなに見られたら、誰だって不思議に思うわ」
「あ、ああ。その服、亜莉子によく似合っているなぁ、と思ってね」
「もう!そういうのは好きな子に言わなきゃいけないのよ」
「だったら亜莉子に言って良いんじゃないのかな」
「そ、そう?ありがとう…」
少し早足になって、の前を歩き始める亜莉子。
亜莉子はお世辞を嫌う。その上純粋な賞賛も謙遜する節が有る。
は亜莉子のそういうところを気に入っていた。
ともすればどんどん距離を広げる亜莉子に付いていこうと、
気合を入れるように息を吐く。それと同じくしてぐん、と引かれる燕尾服。
不意を突かれて妙な声が零れそうになったが、なんとか堪えた。
「クロネコ」
「おやおや。どうしたんだい、チェシャ猫」
猫の爪のように滑らかに伸びた爪を持つ人差し指と親指で
の燕尾服を抓んでいるチェシャ猫は、
先ほどのようにしゃがみこんでの方を向いていた。
変わらないニタニタ笑いのままで言う、その言葉。
それは思っても無い言葉だった。
「クロネコの服も似合っているよ」
「そうかい?燕尾服よりも、ドレスの方が可愛いだろう」
「僕はクロネコの燕尾服が可愛いと思うよ」
「…なんだか、褒められるのは慣れていないから、妙な気分だね」
「クロネコ」
「ん?」
ぺろっ
現場を目撃していた亜莉子の絶叫が聞こえるまで、あと、ほんの僅か。