クロネコ。
その響きは私の頭の中で反芻された。
06 静かな庇護欲
「亜莉子や、着替えは終わったのかい」
試着室は二部屋あった。そのうちの1つのカーテンが全部閉められていたから
、亜莉子がいるのか確かめるために名前を呼んでみると、カーテンの合わせ目から
亜莉子の顔がヒョコッと出てきた。亜莉子は私の姿を発見すると目を細めて微笑んでくれる。
冗談でもなんでもなく可愛いよ。
「あ、!服を選んだのね?」
「ああ、選んできたよ。燕尾服なんだけど…
他にはドレスとかしかなくってね、それでこれに」
「えー!見たいわ!とっても見たい!」
「そういう亜莉子はどうしてまだ中に入っているんだい」
「が来るのを待ってたのよ」
「…それは、ありがとう」
亜莉子は私と入れ替わりで外に出たらしかった。
だからそれで私も亜莉子がしたみたいに部屋の中から亜莉子のほうを見ようとすると、
タイミングよく『開けちゃ駄目なんだからね』と聞こえて、自粛せざるを得なかった。
どうやら亜莉子は私と同時にお披露目したいらしい。それを悟って判ったよ、と返すと、亜莉子は先に行ってるね、
と言葉を残して親方のところまで戻って行った。
亜莉子は実は意外に不安がりだから、今も凄く不安なんじゃないかなと思うんだけど、
それを少しだけでも拭えるのなら良いと思う。だからこそ今はあの親方たちと一緒に居させる訳には行かないんだ。
大体、さっき偶然聞こえてしまった言葉、クロネコ、はあのチェシャ猫が私を呼ぶときにつかっていた呼び名じゃないか。
それを此処で聞くなんて、なんだか不穏な気がしてならないんだけれど…これは私の思い過ごしだと嬉しい。
それにしても、一体何が起こっているんだろうか。
短時間の事なのに起こったことがありすぎて、何について考えたら良いのかわからない。
しかも何について考えても根拠も論証もありはしないのだから、いつのまにかその必要性さえ
ないのではないかと思えてくるのが怖いんだ。
それでも此処に居るんだから、逃げも隠れも出来ないんだけど。
私がスカーフを脱いでその大きな服を着ようとすると
服は私の体型に合わせるように縮みこんだ。そりゃあ最初はびっくりしたさ。本当にビックリした。
でもすぐに、そうか、そういうこともあるのか、と納得した。
だって仕方がないじゃないか。私が小さくなったんだから、他が小さくならないなんていうのは可笑しいだろう?
スカーフを着続けなくて良かっただけで私は幸せ者さ。
「ほう。まるでオートクチュールだね、素晴しい」
どこもかしこも寸分の狂いすらない、完全に私にピッタリだ。
黒く磨き上げられた靴さえ、大きすぎたように思えたのに履いた瞬間に私に合う様に縮んだ。
スカーフは申し訳ないけれど室内において、私は新しく燕尾服で試着室から出た。
生き返ったような心地だよ。私は基本的にスカートは制服でしか穿かないものでね。
しかも今まではスカーフだったから下にも上にも何も穿いてなかったという事になる。
今考えたら恐ろしい。その面ではこのお店に感謝しなくてはならないのかな。
そういえば御代は?御代はいらないのかな。財布には幾らか入っていたけれど、今は
何ももってやしないから、請求されたらどうしようか。
私も行こう、と数歩進んだ時、聞こえてきた声は明らかに亜莉子のものだった。
しかもその声といったらやけに逼迫しているようで、確かに『嫌!』という否定の声が聞こえた。
続けざまに何かが床にぶつかる様な、がん、という音。
どうしよう、もしかしたら、懸念していたことが起こってしまったかもしれない。
私は全身の血液が冷えていくような感覚を覚えながら、亜莉子の姿を探した。
「大丈夫ですよう、すぐ済みますから」
あのネズミ、ハリーは私の心配を慰めるみたいにして優しく猫なで声で言った。
ネズミなのに猫なで声っていうのも変だろうけど(そうよね。話すネズミなんて初めてだもの)
今はそんな気休めさえも気休めにはならない。寧ろもっと怖くなるだけだわ。
でも私の恐怖なんて何処吹く風。
ハリーは表情のわかりにくい、あの小動物特有の黒い目を爛々とさせて、自分の親方に私の腕を押さえておくように
言うと、行き成り大きな裁ちバサミをもちだした。きっとアレで私の腕を切ってしまうつもりなんだわ。
「いい、意味がわからないわ!どうして私の腕なんかを…
駄目!腕は駄目!切ったらタダじゃ置かないわよ!」
一体、どうしたら良いの…?この人たち(人ではないけど)腕が欲しいとか、私の肉がとろけるとか、
良い匂いがするとか…ああ、わかった、だからさっきハリーはの匂いを嗅いだのね…でも兎に角
意味のわからないことばかりを言って私のに、に、肉を食べてしまおうとしている!しかも全くの冗談なんかじゃなくて、
目が本気。お代はいらないって言ったくせに!嘘つき!
「腕は駄目ですかぁ、じゃあ、足でもいいですよう」
「どこでも駄目!いい加減にしてよ!駄目ったら駄目ー!」
「動くと痛いですよう、よぅし…」
「聞ききなさいよ人の話!この低脳!やめてったらー!
良い人達だと思った私が馬鹿だったのーーー!?」
「僕等はアリスが大好きだから、食べちゃいたいんですよう」
「そんなことしたら、嫌いになるわ!絶対に!」
「じゃあ、せめて、指を一本だけ…」
「うるさぁーい!黙ってろ絆創膏!駄目なものは駄目!」
「美味しく食べますから!残しませんからあ!」
「埒が明かない!寧ろアンタを食ってやりたいぐらいだわ!」
どれだけ言っても私を開放してくれそうにない。一生懸命暴れてみたけど、
テーラーってこんなに力があるのかしら?ビクともしないの。その間にもハリーは、手を押さえておくように言う。
私の手は上からの圧力で押し付けられて広がり、可愛い膨らみを持った服の肩口に裁ちバサミが添えられた。
嘘でしょう、こんなの――――――
『チリン』
どこかで、鈴の音が聞こえた気がした。
本当に微かで、聞こえて無いといわれれば、本当にそう思い込んでしまうぐらいの。
「な、に」
とたんに軽くなる私の体。強く閉じていたのから少しだけ目を開いてみると、
そこに居たはずの親方さんと、私の肩口にあったはずの裁ちバサミの姿はなかった。
ちょっと警戒しながら起き上がると、押さえられていたところがギシギシ痛む。
地味に痛くて、あのクソネズミと絆創膏が憎たらしく思えて、一体どうしてやろうかと
湧き上がるエマージェンシー・バーサク・パワーを拳に感じ前方を見ると、そこには私の見知った人らしき後姿があった。
「…?」
は燕尾服を選んだって聞いたから、多分間違い無いと思う。
後姿のヒラヒラした布が小さく揺れるから、私はハッとしての名前を呼んだけど、はいつもみたいに
私を振り返って微笑んではくれなかった。それよりもは彼女の目の前にいる二つの影をじっと見つめるようにして立ちすくんで
いるから、少し異様に見えて、それ以上声がかけられなかった。
「じ、嬢ちゃん」
「おおお、お嬢さん」
そこの2人も驚いていて、親方さんは腰を抜かしたような格好で
お腹に手を当てて(多分、から蹴られた…のかな)(そんなことする子じゃないのに)
ハリーはまん丸の目を今にも落ちそうなぐらいに見開いている。
かくいう私も腰を抜かして、目を見開いているんだから、2人のコト笑えないんだけど…
暫く沈黙が流れて、痛いぐらいの空気にの声が聞こえた。
「貴様等は、私を、怒らせたいのかい」
鼓膜に残った声は、とても丁寧につむがれたけど、私でも怖いって思うくらい冷たく聞こえた。
(だって、だっていつもは『貴様』なんて言わないもの)
それを向けられた二人は、もう何の反論さえ出来ないみたいに口を真一文字に
引っ張ってを見ている。
たったの少しでも身動きできない。
こういうの、殺気っていうのかもしれない。
友達に言っちゃいけないのは判る。
でも、怖い。
「う、うううう…」
そんな沈黙を破ったのはハリーだった。
に見つめられたままのハリーの目は、越しに見た私でもよく判るぐらいに、
濡れて光っている。文字にすればうるうる、といった感じだろうけど、…どうやらハリーは泣き出してしまったみたい。
それに気が付いた親方さんは体勢こそ変化させないものの、ハリーの方に顔だけを向けた。
絆創膏ごしにも光る汗。焦っているのが判る。
「泣くな!泣くんじゃあねえぞ!
お前は泣かなくたって生きていける!なっ?」
「うううううう、うう、ううう」
ぶるぶる震えるハリーの針が、無造作にシャキンと立ち上がり、それを見た親方さんが尚の事焦り、
そして止められないと判るや行き成り、腰を上げ逃げる体勢になる。
の威圧感よりもずっと強い本能が働いているのかと思うと、それがどれだけ危ない状態なのかが
判った気がして、私も身構えた。
「うわあぁぁぁぁん!」
とうとう破裂した泣き声と同時に発射された針。
刺さってしまう!そう思った。に刺さってしまうんじゃないか
と思うと、何とかしたくて、でもどうしたら良いかわからなくて、
もう目を閉じて体を縮ませるしかなかった。こういうとき何も出来ないのって
すごく苦しい。を守れないのが苦しくて、涙が出た。
「これでが死んじゃったら、私も死ぬんだから…!」
「これこれ、滅多なことを言ってはいけないよ、亜莉子や」
「…、え」
さっきと全然違うの、優しい声が聞こえてつい私は目を開けた。
するとさっきまで見たくて仕方なかった
のゆったりとした笑顔が見れて、私はつい体の力が抜けてしまう。
でも…もう針は到着しているはずなのにどうして?どうして痛くないの?
おかしい、私、もう幽霊になったの?それで、も一緒に居るの?
じゃあ、は死んじゃったの!?嫌!そんなの駄目よ、!
「大丈夫。針は来ないよ」
だからそんなに怯えてはいけないよ、というの後ろには火が燃えていた。
しかも部屋が燃えているんじゃなくて、飛んできたはずの針だけが、あの鋭い針だけが、
ちりちりと繊維の焼ける嫌なニオイを発しながら作業台の上に散らばっている。
私はそれがどういう理屈で起こったのかとか考える前に、の雰囲気がまたいつもどうりに戻っていたことに
とても嬉しくなった。さっきまで怖かった。いつものに戻ってくれて有難う!
、私の親友、一緒に居てくれて有難う!
はポカンとしたままの私を見て小さく笑った後に、私の手をとって立ち上がらせてくれた。
今のは燕尾服で、もともと私よりも背が高いから、少しだけお姫様みたいな気分になって
ドキドキしたって言うのは、一生、誰にも言わないんだから。
「…」
私の服の埃を払い落としてくれた後、は残った彼等を見た。
ハリーはビクッと震え上がり、親方(やっぱり幾らか刺さっちゃったみたい)(でも不思議、生きてる)は
物陰からを見ているみたい。でもはさっきと打って変わった声の調子で話しはじめた。
うんうん、そうよ、やっぱりこうやって落ち着いて無いとらしくないわ。あの女子高生らしからぬ落ち着き加減で
随分と年下に人気だったもの。
「私が何か言わなくても、自分達が何をしたかぐらいはわかっているだろうね?」
どうやら針を飛ばしたことを言われていると勘違いしたのか、私を食べようとしたのを棚に上げて親方さんはハリーを
追いかけ始めた。五十歩百歩って言葉を知らないのかしら。それとも、私を食べることは罪じゃないの?
私ってもしかして、この変な世界じゃ食べ物になってるの?そんなの、怖すぎる…
1人蒼白になる私の顔を覗いて、は笑ってくれた。
「怪我はないね。無事でよかった」
途端に涙が出てきた。
が居てくれなかったら、どうなっていたんだろうって思った。
いつも私がを守っている、て思っていたけど、本当は私がに守られていたのかもしれない。
とにかくボロボロ出てくる涙を拭おうとすると、丁度頬っぺたの辺りに何か布が触れて、それが
の燕尾服のハンケチーフだと判ると尚更泣けた。
「何を泣いているんだい、アリス」
顔上げるとチェシャ猫が居た。にぃ、と笑ったままで被服室の作業台の前に立っていた。
でも今、信用できるのはしか居ない。私はチェシャ猫が(大きい分もっと)怖くなった。
このギラギラする歯で私を食べてしまうんじゃないか、食べるために私を小さくしたんじゃないか、
全部不安に思えての背中に縋りつくとはチェシャ猫を見つめて淡々と話しはじめた。
「亜莉子は怖い目にあったんだよ、チェシャ猫」
「そうなのかい」
「見ていたんじゃないのかい」
「見ていたよ」
「そうかい。アレを怖い目というんだよ」
「でも死ななかったよ」
「死にそうになるのが怖いんだよ
ところで、チェシャ猫は亜莉子を食べるのかい」
「…食べないよ、おいしそうだけどね」
「食べないって言っているよ。亜莉子
だからそんなに警戒しないでおやりよ」
「シナイデオヤリヨ」
「チェシャ猫や、真似っこは良くない」
「マネッコ」
は本当に凄い。私のコトをなんでも判ってくれてる。
私は私の不安を読んでくれた感謝をしようと思って背中から離れようとした。
離れようとしたけれど、その前にの方が離れた。でも『が』離れたんじゃなくて、
チェシャ猫がの手を引いたから自然と離れてしまったの。
突然の行動にも、私もチェシャ猫のほうを見た。
「チェシャ猫や、どうしたんだい」
「クロネコ」
そういうとチェシャ猫は行き成りの背を片手で支えると、今のには
握手するにも大きすぎるような手の指での顔、もとい瞳を覆った。
そしてを食べちゃうんじゃないかって言うぐらい顔を近づけるとあまり動かない
になにか囁いているみたい。ささやきよりもずっと小さな声で、もしかしたら何も話していないのかもしれない。
でも、でも!許せない!私のに何てことしてるの!やめてよチェシャ猫!や・め・てー!
でも雰囲気的にそれをいえない私。(ああぁぁ、ハリーみたいに泣いて、髪の毛が飛んだら良いのに)
そして。
「おやすみ」
その一言で、は力が抜けたみたいにチェシャ猫の手に倒れていった。