「チェシャ猫」
「なんだい」
「縮んでしまったよ、どうしてだい」
「ストロベリージャムパンを食べると縮むんだよ」
「最初に言ってくれたなら食べなかったよ」
「常識だよ」
「君の『常識』は『非常識』と考えて良いのかい」
「常識だよ」
「それでも一応断りをいれてくれないと、」
「常識だよ」
3回も言わなくて良いよ。
04 可愛いネズミにゃ棘がある
亜莉子がやってくる気配がしたと思うと、チェシャ猫は私を掴み上げて教室を出た。
そのときチェシャ猫は私の着ていた制服も持って出てきてくれた。けれども微妙な気分。
だって、この大きさのままじゃあ制服を着るコトだって侭なら無いんだから。
それから暫くもせずに、案の定、亜莉子が入れ替わりに教室に入る。
どうして見つからなかったのかは解らないけれど、
私とチェシャ猫はそれを教室の後ろの出口の方から見つめていた。
暫く経ってから教室の中で物音が聞こえた。恐らく、亜莉子があのパンを発見したんだろうね。
心臓に毛が生えていると多くの人に言わしめた私でさえも驚いたんだから、きっと亜莉子に至っては
今世紀最大の驚きだと思う。かわいそうに。この猫に出会ってから、私は亜莉子が不憫でなら無いよ。
不満の意を表して私を掴む手を噛んだら、もう片方の手で頭を撫でられた。
チェシャ猫や、私は猫じゃないよ。クロネコとか言われてる
けれどね。
亜莉子が勢いも良く教室から走り出てきた。追いかけて落ち着かせてあげたかったけれど、
今の私では如何することも出来ない。…というか、足のリーチが違いすぎる。コレで私が亜莉子に
追いつけたのなら、私は今頃オリンピックで前人未到の記録を出しているはずだよね。
そこで、もぞもぞと動く私を右手に捕まえたままだったチェシャ猫は制服もろとも私を廊下に置くと、
音も立てずに亜莉子の後を追い始める。私の気持ちが伝わったのかもしれない。
いや、全く嬉しいとかでは無いけれど。
「それで…私は何をしておけば良いのかな?」
兎に角は服を何とかしないといけない。女の子らしい反応で行けば『きゃあ!やだ、裸じゃないの!』
って所だろうけれど、残念ながら私にはそんな可愛らしい羞恥心は殆ど無い。というか、この廊下には
私一人なのだから、恥ずかしがる必要も無いと思う…けれど、これで亜莉子に会うのは少し気が引けるなぁ。
私は制服のスカーフを一生懸命外すと体に巻きつけた。余談だけど、あんまり布地が余るから前の方でリボン結び。
こういう服って結構前、テレビのファッションショーで見た気がするよ。小さいのも悪くないね。
やることがなくなった私は兎に角そこら辺を見回してみることにした。
――といっても、普通の学校の風景しか見えない。只ちょっとだけ全ての細分が大きいだけで、
何の変化も無い。緊急時のシューターの赤が夕焼けの赤に映えて、そういえばこうやって学校の中で
夕日を見たのは久し振りだなぁ、としみじみ思った。(亜莉子は授業が終わったらいつも直ぐに帰る子だけど、
今回は丁度考査が近いから残って勉強していたんだよ)
未だに亜莉子と私、そしてチェシャ猫以外の人物を見ていない気がするのは、気のせいじゃないだろう。
こうなってしまってからは外を見ることも出来ないけれど、きっと誰も居ないだろうね。
だって人の気配が全くしないんだもの。私にも解るぐらいに、全く。
「おや、あれは―――」
そのとき私の目に留まったのは、小さなドアだった。
小さいといっても私も小さいのだから、普通のドアだね。
20cmぐらいの精巧に作られたドアが、ちょこんと廊下の行き詰まりの壁に備え付けられている。
あまりに小さくて、気がつかなかったんだろう。と、いうか、普通気がつかないと思う。こんなに混乱する
状況の中では。
(小さくなる、パン…)
そこで私の頭に浮かんだのは、あのパンのコトだった。
どうしてあの場面で私が小さくならなければならなかったのか、きっとその理由があるはずだと
思っていたのは、どうやら正解だったらしいね。進む道は一本しかない。しかも
小さな小さなドア。普通の体躯じゃあ、絶対に入ることが出来ないはず。それなら小さくなったコトにも頷ける。
というか仕方の無いことのように思える。
まぁ、どうやって元の大きさに戻るかは解らないけれど。
「…この際だから、行ってみよう」
近寄って手を掛けると、そのドアノブは思ったよりもずっと簡単に開いた。
その続きにも同様に廊下が続いていた。構造的な面では学校と大差ないみたいだ。
唯一のお洋服である制服を置いたままこの戸を潜るのはちょっと無謀な気もするけど、とにかく進まないと
何も起こらない。起こらないほうが良いことも、そりゃあ、あるけれどね。
直ぐに戻ってこよう。きっと亜莉子も此処へ来るはずだから、私もさっきの教室で待っていよう。
そしてかわいそうな亜莉子に帰り道、なにか奢ってあげるために出口を探そう。え?
まだ帰れると思ってるのが変だって?当然だよ。私は『渡る世間は猫ばかり』を観ようと思っているんだからね。
「その為には情報収集だね」
「なんの為ですかあ?」
亜莉子ほどではないけれど、私は驚いて音を立てないよう注意して閉めた扉に背をぶつけた。
私のもので無い、ましてや亜莉子やチェシャ猫の物でも無い、間延びした声が聞こえる。
その幼さを滲ませた甘ったれた声が、私に向けられているのは私がそちらのほうを向いてからわかった。
「なにかお探しですかあ?」
「…道を、探していてね」
「道ですかあ。道なら此処から先にずぅっと続いていますよう」
まっすぐですよう、とぷにぷにした指が矢印を作って廊下を指す。だけどね、
私の知りたい道と言うのは恐らく君の言う道とは少し違うような気がするよ。
私の探す道というのはね、この外に出る道であって…という言葉を私は言えないままでいた。
だってハリネズミなんだもの。
「どこかに行くんですかあ」
「そうだよ。もう家に帰ろうと思って。君は?」
「何もしてませんよう。ところで…
お嬢さんは何処にお住いですかあ?見たことの無い顔ですねえ」
私にはハリネズミの知り合いはいないことを公言しておこう。
それどころかハリネズミがすむような穴倉に住居を構えているわけでも無いし、ハリネズミの顔見知りになるような
所にすんでいるわけでもない。どちらかと言うと、原始的なジャングルからは程遠い、コンクリートジャングルで
生きてきた自覚があるよ。今まで生きてきて、等身大のハリネズミを見たことなんてなかった
(それか、私がここまで縮むことなんてなかった)けれど…
いやいや、凄い光景だね。折角小さくて可愛らしかったハリネズミがいまや熊と見間違うほどのスケール
で私の前に立ちはばかっているんだ。ツンと出っ張った鼻がせわしなくヒクヒク動くのが鮮明に見えて、
被り物で無いことは直ぐにわかった。Yシャツを着たウサギが居るんだから、こういう、人間クサイハリネズミが居ても
おかしくないのかもしれない。日本語を話すとかは、本当に不思議だけどね。
「あのう」
「何だい、ハリネズミ君」
「もしかして…あ、あ、アリス、ですかあ?」
ハリネズミが一瞬だけ戸惑ったような目の光を宿した後に、両手をごにょごにょと動かしてこちらを見た。
まん丸で夜の闇をたらしたような目が此方を見る。その瞳の中には私が居て、唖然として瞬きを繰り返している。
勿論、亜莉子がアリスと呼ばれているのだから、不正解だと言って良い。
それでもこのハリネズミが『アリス』という言葉を発する時の、この上なく幸せそうな表情が気に掛かった。
亜莉子が先ほどからアリス、と呼ばれているのには何らかの理由があるみたいだね。私もクロネコと呼ばれている
手前、そう簡単に私がクロネコです、と身分を明かさない方が良いのかもしれない。
「残念だけれど、アリスではないよ」
「あぁぁ…そうですかあ」
ハリネズミは体中の息を吐き出さんばかりに身を折り溜息し、とても残念そうに肩を落とした。
かわいそうだけれど、分かっておくれ。
これが君らの言うアリスの為なのだろうから。
如何しようかと思う割には、慰めてあげるのにはどうも時間が惜しいね。
放っておくと暫く落ち込んだままでいそうなハリネズミに、出口を
聞いてみることにした。
まるで世紀末の様な落ち込みようだから、まともに答えてくれるのかどうか心配だけど。
「もしもし、ハリネズミ君」
「ハリーですう…」
「ハリー君。もうじき私の友達がここに来るんだ」
「その人がアリスなんですかあ…?」
「……い、いいや。その子もアリスではないよ」
「そうですかあ…僕、まだ若いから、アリスを見たことが無いんですよう
もう見れないかもしれないって、親方が言うんです」
「それはお気の毒に。いつか君がアリスと会えることを祈っているよ」
「お嬢さんは家に帰るんですよねえ。急いで…走って…」
「いや、そこまで急いでは居ないよ」
「それならっ」
その返答を聞くや否やハリーはキラキラとした目で私を見つめた。
さっきまで絶望一色だった瞳の中には好奇心やら歓喜やら、そういう『喜ばしい』ものが
一杯になっている。どうも気の移り変わりの早い坊やだね。若いとは、そういうことかもしれないけれど。
ハリーは私の手を取ると、ぐいっと顔を近づけた。鼻と鼻がぶつかって形が変わる。
きっと今の私はブヒブヒ鳴く、あの有名な動物のお鼻になっているに違いない。
まさかこんなところで初ブヒブヒを体験するだなんて…。
「慰めてくださったお礼に何か差し上げます!
僕の親方はテーラーをしているので、何か、服とかを!」
「いや、そこまでしてくれなくっても大丈夫だよ
帰り道を教えてくれたら、それだけで」
「いいんですよう。僕が連れて行きたいんです。
お嬢さんは小さくて可愛いから、似合う服が沢山ありますよう
それに、帰り道なら、僕が案内しますからあ」
「…本当かい?君が案内してくれる?」
「約束を破ったら、針千本のみますよう」
それは君の場合、自分を食べます、と言っていると思って良いのかい。
私が了承したと分かった瞬間、ハリーは私の腕を引っつかんでどこかに連れて行こうとし始めた。
いや、目的地は分かっているんだよ。八リーの言う『親方』さんのいるところなんだろうし、ソコに行くのには
抵抗は無いんだけど、今は戻らないといけない。
もう亜莉子はパンを食べたことだろうし、此方まで連れてきて、
ついでに二人一緒に家に帰ろうじゃないか、という素敵なプランがお釈迦になってしまうんだ。
「ハリー、待っておくれ。友達を待たないといけないんだよ」
「大丈夫ですよう。きっとそのお友達も親方の所まで来られますよう」
「と、とにかく、ここで待っていないといけないよ」
ずるずるずる。
ハリーの力といったら凄まじい。私は殆ど空を見るくらいに体を斜めにして、
ハリーの強制連行から脱出しようとしているのに、まったく反応が無い。
少しずつ知らぬ方向へ移動しているのには仰天だよ。もしもすべての生き物を人間と等身大にしたのなら、
一番力が弱いのは人間かもしれない、と思ったね。ハリーがここまで懐いてくれたのは嬉しいことだけれど、
少し気が早いと言うか…。そういう私を捨て置いて、ハリーは何とか私をひっぱっていく理由を考えている様子だ。
「えーと、早く親方に紹介しないと…」
「おや、紹介までしてくれるのかい?」
「それは当然ですよう!親方にはちゃーんと紹介しますよう」
「そこまでの事はして無いと思うんだけど、」
「彼女をつれてきましたようって!」
行き成りうきうきしだすハリネズミと、呆気に取られて、少し引っ張られた後に
我に帰る、女子高生。
きっと此処までファンシーでコケティッシュな場面なんてものは無いと思うけれど、私の中では
戦いのゴングが高らかになった瞬間だった。
今すぐ に 扉 の 向こう に 逃げなければ!
逃げなければ、その先ぐらいは分かるだろうね?親指姫みたいな予期せぬ事態に巻き込まれるって
ことだよ!(あ、言っちゃったね)私は概して人には好き嫌いは無いほうだけど、それは人が対称なのであって
、ハリネズミだなんてコアな種類のことを考えたことなんて一回もなかった。というより、誰がハリネズミを
好き嫌いの対称に置くだろうか。誰が買っている犬との交際を考えるだろうか。よもや思考は八方塞。
ところでこういうのを『在りえない』、英語で『No way』とやるんだから、上手いものだよね。
…と、冷静になる場面じゃないね、ここは。
「は、ハリー。ちょっとだよ、ちょっとだけでいいから、ここで待っていてくれないかな
私は友達を連れてくるから、その少しの間だけ、待っていておくれよ」
「えぇ、お友達は後から来てくれますよう。二人の門出を祝って」
「(本格的に電波になってきた!)」
引きも無く引かれも無くただ防戦の押し問答が時間軸と一緒に滑っていくのは、
私にとっては時間稼ぎなのだけれど、ハリーからすると最高にもどかしい時間らしい。
更には私の手を両手で引き掴んで連れて行こうとする。
ハリーや、これじゃあ君は只の誘拐犯だよ。君はまだ若いのだから、そんなうちから犯罪に手を染めたら
いけないじゃないか。
ネズミだっておけらだってミミズだって、アメンボだって、皆、生きているんだ、友達なんだ。
「だからその手を離―――」
がちゃ、きぃー
「……あ、亜莉子」
扉を開けて入ってきたのは私同様、体にスカーフを巻きつけた亜莉子だった。
(妙な日本語文体だけれども)よかった、ちゃんと小さくなれたんだね。
でも私と亜莉子が此処に居ると言うことは、チェシャ猫は一体何処に言ったんだろう。
それを聞こうとすると、それよりも先に亜莉子が口を開いた。
「ハァイ、私亜莉子よ
ところで、今何をされているの?誘拐?」
行き成りの登場で少しアメリカン訛りなのが気になったけれど、それよりも亜莉子の
引き攣った表情筋の方がずっと気になった。亜莉子が怖い。今までに無い邪気が出ている気がするよ。
その質問には私で無く、ハリーが言い返した。その際ハリーの小さな爪がグイ、と食い込む。
「誘拐なんかじゃないですよう!ね、お嬢さんっ」
「ハリーや、少し手が痛いよ。離しておくれ」
「やですよう、一緒に行きましょうよう」
「あいたたた…」
「手を離しなさい?ネズミ・ハリー」
数分前に私の中でゴングがなったのと同様に、亜莉子の中からも何らかのゴングの音がした…様な気がした。
亜莉子は笑顔で手の関節をゴッキゴキならして、更に肩まで廻している。駄目だ、逃げるんだハリー。
私の記憶が正しければ、コレは亜莉子がバーサクに陥る10秒前の行動なんだから。
それでもハリーは手を離そうとしない。よほど私のコトを気に入ってくれたのか、この学校内に可愛い女の子
が居ないのか。…後者だったら、私は亜莉子の方をオススメするよ。
いや、私が逃げたいから、とかじゃなくて、亜莉子のほうがいいお嫁さんになりそうだからさ。
あら?でもなんだか不満だ。成る程、これが娘を嫁がせる親父の気分なんだね!
「亜莉子や、ハリーはネズミ・ハリーという名では無いよ」
「もう一度言うわ…手を離しなさい、根炭針男」
「漢字にしても一緒だからね。ていうか針男って」
そうしているうちに10秒経過し、手を離さなかった根炭針男さんは意識不明の重体となりました。
「、いい?危なくなったら叫ばないと駄目よ?
なんだか安全なところなんて無いみたいだから…」
「だったら亜莉子も叫んでおくれ。
アリスは此処では有名人みたいだからね、気をつけないと」
「ええ、叫ぶわ。そのときは助けに来てね?
でもが叫んだ時は私が助けに来るから!
の敵は私の敵だもの!ぶっ殺すわ☆」
満面の笑みでそう言った亜莉子はいつもよりも逞しく見えました。
(私も強くならないといけない…ね!)