私と亜莉子は兎に角どうすることもできずにそこに突っ立っていた。
不思議のアリスでお馴染みのウサギ…とでも言えば響きもよく可愛らしく
思えるかもしれないけれど、こちらのウサギさんは人間サイズ。
勿論時間なんて気にして無いし、オプションで血液セットのね。
(もともとオプションなんて頼んでも無いんだけどさ!)
「」
「なんだい亜莉子」
「行きましょ」
行きましょって亜莉子、キミという女の子は危機感って言うものが
……あっ、これこれ、亜莉子!亜莉子や!
03 血まみれウサギと妙なパン
亜莉子が少しも悩まずにウサギのところに行くといったのには私でさえもが焦ったよ。
だって亜莉子や、あのウサギの正面についている赤いのはなんだい?ケチャップ?
いやいや、ウサギはケチャップは食べないよ。塩分が多いから……と、いう話じゃなくて。
だったら人間を食べたのか、と言いたくなるところだけど、アレは血液だよね。
「これ。待ちなさい。危険だよ」
「だって。うさちゃんが見てるのよ?可愛いじゃない」
「確かにあの覗き方は可愛いとは思うけどね、如何せん大きすぎるよ」
「愛があれば大きさなんて二の次だわ」
「アリと象でも愛し合えるってことかい。それは無理だと思うよ」
可愛いって!あの血まみれのウサギが可愛いって!あの等身大のウサギが可愛いって!
(もしかしたら亜莉子は小学校の時にうさちゃんのお世話でもしていたのかもしれないな)
そんなつまらないことを考えていると亜莉子はするりと私の拘束を抜け出してまたウサギの方
へと足を向ける。…仕方の無い子だね。私も付いていこう。
亜莉子がウサギを捕食してしまったら取り返しが付かないからね。
私達がウサギへ進むとウサギは耳をヒョコっと動かしたけれど、そのまま動かずに
ドアの隙間からこちらを見ていた。顔の表面(と言うとなんだか恐ろしい表現だけど)
が意外にもフワフワしている。
毛が生えた動物と言うのは触っているだけで癒されるものだよね。
…アニマルセラピーとか言うらしいけれど
、多分、残念だけど、このウサギを触っても癒されないような気がする。
アレは…そうだ、スライムだよ。
油断させて私達を喰らってしまおうと思っているんだよ。
「亜莉子や。そんなにあのウサギが可愛いかい」
「可愛いと言うか…言ってたじゃない。チェシャねk…変質者が」
「(い、言い直した…)」
少しは冷静になったのかもしれない。亜莉子は真剣な表情で話し始めた。
ああよかった!亜莉子が『変な子』から脱出したよ。
「シロウサギを追え、だったかい?」
「そう。廊下もずっと続いているじゃない?だから追って見ようと思ったの」
「…だね。これ以上歩いていたって何にもなら無いだろうね」
「そうでしょ?早く帰りたいのよ。ドラマの再放送があって」
「なんだいその生活感たっぷりの理由は」
「渡る世間は猫ばかり。だって見てたでしょ」
「見てたけど途中で見損じてね。興味がなくなっちゃったんだよ」
「えー!楽しいのに!マタタビを巡る戦いなんて最高だったのよ?」
「だって猫缶のところでマンネリ化したって言うか…」
「録画してあるから見に来て!そうね…今週末にでもっ」
「録画してあるのかい」
ガララララ…
「あ!」
「え?」
亜莉子と私がどうでも良いことで話し過ぎていた所為かもしれない。
恐らく『渡猫』論議を聞き飽きたのであろうウサギは教室から出てきていた。
唖然とする私と亜莉子。血まみれで無表情(いや、ウサギだから仕方ないのだけれど)のウサギ。
サスペンダーに水色のシャツ。そしてズボン。真っ白フワフワの頭さえなければ唯の人
なんだけどねぇ…。
両者動かずにじっとしていると、最初に動いたのは亜莉子だった。
私がその制服の袖を掴んで引っ張ると、亜莉子は安心してと言わんばかりに微笑む。
「亜莉子」
「大丈夫。危なくなったら逃げてくるから」
一体それで何が大丈夫なのか甚だわからないところだったけれど、亜莉子は
自信たっぷりにウサギの方へ歩いていく。歩いてくる亜莉子の様子を
ウサギはじっと見つめているかと思いきや、行き成り方向転換して――
突然ダッシュした。
「あっ!逃げるよ、いいのかい」
「ッチ…何処で感付きやがったあのウサ公…」
「亜莉子!?」
亜莉子は渋い顔で舌打ちをして、制服の袖を捲り上げた。目が据わっている。
そしてウサギの方も『こっちに来て見ろよ』的な立ち止まり方でこちらを見て…
私は一体何処に驚けば良いんだ!!全部か!全部に驚けってか!無理だ!
おっといけない、キャラが壊れてしまった。さて…亜莉子があのウサギにどんな計画を
練っていたのかはもう、闇に葬って私は亜莉子のほうを向いた。
亜莉子はたまに恐ろしい発想の子になるけど、いつもは可愛らしいお嬢さんだからね。
ウサギも逃げてしまったし、これから如何しようか話しかけようとしたんだよ。
「おや、亜莉子?亜莉子は……」
「待てこの血ウサギィィ!」
「……」
どうやら亜莉子はウサギを追いかけて行ったらしいね。お姉さんは悲しい。
あれだけ不審人物には付いていくなと言ったはずなのに、廊下の遠くの方には白いフワフワと
此処の制服が見える。それにしてもあのウサギの驚異的なダッシュについていくだなんて
亜莉子の前世はきっとアマゾネスだ。前世でも何らかの作戦を練って
ウサギを捕まえていたんだ。
そうに違いない。
孫達がじゃれているのを見つめる祖母の様な気持ちで彼女等のデッドチェイスを見つめていると、
ウサギとアリコの姿が見えなくなった。どうやら教室の中に入ったらしい。
恐らくはここから10室向こうの教室。私は意外に目がよくってね。
高層ビルの上から見たって人がどんな顔をしているか解……流石にソレは不可能だけど。
「さて、私も追々行こうかな」
でも教室に入っていった亜莉子を放って置くわけには行かない。
今の亜莉子は身心共にとっても危険な状態にあるからね。ウサギと言っても相手は血まみれの
ウサギだし・・・え?心?心はホラ、バーサーカーになってるからだよ亜莉子が。
「行ってはいけないよ」
「わ」
突然。
行き成り目の前が真っ暗になったと思ったら、ほんの数分前に聞いた声が後ろから聞こえてきた。
そして今暗くなった目元には暖かくは無いにしても、ほんのりとした温度が在る。
その異様な温度にも触れた覚えがある。さっきの悪夢を髣髴とさせるけれど。
「変質者」
「……」
「チェシャ猫」
「そうだよ」
手をムリヤリ離して後ろを見ると、チェシャ猫が相変わらずににんまりとして立っていた。
後ろに迫っていただなんて、全く解らなかったよ。
僅かな気配さえ出さないだなんて、君は台所に居るあの黒くてギトギトしたアレ
みたいだね。おいで。その真っ暗なフードの中に殺虫剤を噴射してあげよう。
「でもチェシャ猫。亜莉子は向こうに行ってしまったよ?」
「アリスはひとりで行かなくちゃならないんだよ」
「どうしてだい?危ないよ」
「危なくないよ」
依然としてにんまぁぁぁぁりしたままで、チェシャ猫は言う。いや、まぁ確かに今の亜莉子なら
ウサギには負けないだろうとは思うけど。
今の亜莉子はハンターだけど。目がギラついていたけど。
明らかに捕食者スイッチが入っていたけど。それに危ないって言うのは唯の口実だったけれど……
おや、おや?なんだか本当に大丈夫な気がしてきたよ。寧ろ大丈夫かな、あのウサギ。
「一緒においで、クロネコ」
「どこに?亜莉子はあのままで良いのかい」
「あとで会えるよ。先に待っておくんだよ」
チェシャ猫は有無を言わせず私の手を取って歩き出した。
亜莉子を放っておけと言った割りに、向かっている方向はさっき亜莉子が走っていった方向だよ?
もしかして先に待っておくとか行って、本当は私の意見を聞いてくれたのかもしれない。
良い人、猫なのかもしれないね。覗き見たフードの中は下から見たというのに真っ暗だったけど。
……
「チェシャ猫。亜莉子は此処に入っていったはずだよ」
「そう」
「そう…それで、どうして居ないんだい」
「さぁ?」
何故だか、亜莉子は10室先の教室には居なかった。
「ついたよ」
「着いたって…」
壁、じゃないのかい。コレは。
私の手を引いたままずっと歩き続けていたチェシャ猫は袋小路になってから立ち止まり、
あろうことかそれが目的地であることを私に告げた。
随分可笑しな目的地じゃないかい?先に待っていると言ったって、これじゃあ亜莉子が来た後に
何処に行けば良いかなんてわからないじゃないか。てっきり家に帰してくれると思っていたのに、
見事に期待を裏切られたよ。悪い猫だ。チェシャ猫め。
「此処で亜莉子を待つのかい」
「そうだよ。アリスが来るまでここで待っていよう」
「本当に来るのかい」
「来るよ」
「じゃあ…そうだね、待っていよう」
どうしてか、チェシャ猫の言うことは信憑性が在る気がする。
何時もにんまりしている所為かもしれないね。無表情だと逆に怖かったかもしれない。
私が壁に凭れ掛かって亜莉子を待とうとすると、チェシャ猫は私の手を持ったまま向かいの教室に
入ろうと進みだした。何処へ行くの、と聞くと、おいで、と。
君がここで待っておくと言ったんじゃないか!何だい、その意味の無い強引さは。
教室に入りたかったのなら最初からそう言っておくれ。
「これはこれは…」
教室の中は今までのものと違う様子だった。小学校のお誕生日会の様な教室。
机は後ろに下げられて、開けた前方には教卓が1つ、その上に茶のバスケットが乗っている。
可愛らしいけれど、こうも不気味な雰囲気の中では悲しげというか、虚無感を感じるというか…
あまりいただけないね。
それから、私は黒板の方に目を向けた。
「『おかえり 僕らのアリス』…?」
チョークで書かれた沢山の絵が在る中、血の様な赤い文字でべったりと文字が書いてあった。
アリスが亜莉子のコトを指しているのはもう理解できたのだけれど、どうしてそれが『おかえり』
なのかがよく解らない。おかえり、ということは、亜莉子はチェシャ猫やシロウサギに会った事がある
のかな?亜莉子が覚えていないだけで…いや、此処までへんてこな知り合いが居たのなら、亜莉子は
直ぐに教えてくれているはずだから、それは無いか…。
「おかえり、クロネコ」
振り返るとチェシャ猫が居た。ふと見ると、彼は手に先刻まで教卓においてあったハズの茶のバスケット
を持っている。その上に乗った紙――私を食べて、と書いてあった――を何気なく持つと、チェシャ猫
がバスケットを開ける。其処に広がった景色に、私は一瞬息をするのを忘れてしまった。
「…なんだい、それは」
「………」
チェシャ猫は何も答えない。唯こちらに向けてバスケットを開けたまま、じっとしている。
勿論笑顔はそのままなのだけれど、それがまた、気に食わないんだよね。君だけが冷静で居ると言うか
…ああ、バスケットの中には、真っ白な腕が入っていたんだ。
「う、で?」
死体は血が抜けると驚くぐらいに真っ白になるという。私はソレを見たことはなかったし、
これからも見ることは無いだろうと思っていたから、実感が全く湧かずにソレを見ていた。
見れば見るほど腕だ。関節に入った小さな皺も、爪の鈍い光も。
一体如何すれば良いのかわからなくてチェシャ猫を見ると、彼はとんでもないこと言ってのける。
「お食べ」
「…」
私にカニバリズムに目覚めろと言っているみたいだ。だけどお生憎様、私は人並みなご飯しか食べないんだよ
、チェシャ猫さん。君がもし人肉愛好者だとしても私は君を軽蔑したりはしない(勿論
良いことでは無いけれど)。だけれどそれは是非、自分だけの趣味にして欲しいなぁ。
「何を食べろだって?」
「コレをお食べ」
「食べられるのかい」
「大丈夫だよ」
これは全くの拷問だよ。私に腕を差し出しながら、チェシャ猫は私が食べるのを今か今かと待っているみたいだ。
自分の嗜好の仲間を見つけたいのかもしれないけれど、本当になんとかしてほしい。
人の、人の腕なんて食べてしまったら亜莉子から気味悪がられる…。それに人肉は美味しくないとか
聞くし、でも美味しくないと言わないといろんな人が食べちゃうからだとも聞いたし…、嗚呼、もう
何がなんだかわからなくなってきた。
「ん…!?」
「お食べ」
チェシャ猫が私の口に、腕を押し付けてきた。
混乱して如何したら良いのか解らないで居ると、口の中にするりと入ってくる小さな人差し指。
舌で押し返そうとするのにぐいぐいと押されて、指一本の殆どが収まってしまう。
それにしても変な風味がする。すこしざらついた、人間の皮膚の感触なのに、懐かしい味がする。
もしかしたら私は生粋のカニバリズムなのかもしれない。深層心理のそのまた奥で人を喰うことに
快楽を導き出しているのかもしれない。
悶々と考え込む、そのときだった。
「!!」
行き成り私の口の中にはいっている指が動いた。
いや、動いたかどうかは定かではなかったけれど、とにかく口の中を異物が動くような感覚がしたのは
確かだった。
驚いた私はとっさに力が入って――
ぶちん、と噛み千切ってしまった。
噛み千切った衝撃でか、どろりと中から何かが出てくる。
たぶん血だ、指から出た血。
それなのに…
「…甘い」
「おいしいよ」
「……うん」
意を決して咀嚼して見ると、口に入った今、それはある物でしかなくなった。
「これは、パン?」
「そうだよ。ストロベリージャムパンの腕だよ」
「腕ってね、君…」
そうならそうだと最初から言ってくれれば良いのに!
私はニタニタ笑いのチェシャ猫を軽く睨んだ。最初からわかっていたのならここまで自分の精神を
疑わずに済んだじゃないか。なんて悪い猫。グレ猫なんだ、チェシャ猫。君というヤツは。いや、でも
美味しいね、このパン。ここまで精巧な創りにしなければもっと美味しくいただけただろうに。
…と清清しく、釈放された気分でもう一度チェシャ猫でも拝もうかなと思うと、
そこに見えたのはチェシャ猫の全身ローブの灰色だけだった。
それだけじゃない、そこら辺に見えていた机も、黒板の文字も、教卓も、全てが遠くに見える。
下を向いた時に見える床のフローリングの溝までもがありえないぐらいに広くなっているんだ。
「って…チェシャ猫?」
「どうしたんだい、クロネコ」
「どうしたもこうしたも…」
どうやら私、縮んでるみたいだね。