私と亜莉子は教室から出て逃げ出す予定だったらしいけれど、直ぐに立ち止まってしまった。 無理も無いさ。私達2人は永遠とも思えるぐらい(実際、不思議なことに向こう側が見えない)長い 廊下の上にぽつねんと立っていたんだからね。

直ぐ其処に階段があったはずなんだけど、無いんだ。困ったね、と言うと亜莉子は ハンパ無いほどの焦りようで私の腕をもう一回掴んだ。 まただよ、また私の手が薄紫に変色するよ。どうしたら全力で掴まなくなってくれるんだろう? そうなる前に私の腕が肩ごと持っていかれそうな気がする。


「随分と長い廊下だね、亜莉子」

「そうね。それにしてもなんだったのかしら、あの人」

「アレは人じゃないよ猫だよ、ヒェヒェ猫だよ

「とっても真剣なトコで悪いとは思うけどチェシャ猫よ」







02 変な猫とウサギ







亜莉子に手を引かれて教室から随分離れた位になってから、私は教室に色々忘れてきたことに気がついた。 提出しなければならないプリントや、宿題。はては財布から定期券までバッグの中に置いてけぼりにしている。 これじゃとてもじゃないけれど家には帰れない。


「亜莉子」

「なぁに?どうかした?」

「教室に戻るよ、バッグを置いたままにしていたから」

「あの……さっきの教室に戻るの?危ないわ」

「あぶなくないよだってチョチ猫だもの」

「ちょっとよくなってきたけどまだ正解じゃないわ」

「パフェ猫?」

「美味しくなさそうね」


日本語の発音は難しいと聞くけど、私は今日初めてソレを実感したよ。
猫がチョチャだろうがヒェヒャだろうが、タマだろうがいいじゃないか、全く!

私が自分のジレンマと格闘していると、亜莉子は私の手を離してくれた。 振り返ると亜莉子は渋々私の言い分に賛成してくれたみたいだった。 賢い亜莉子。昔私が財布と定期を学校においてきた時、散々奢らされたのを覚えていたんだね。 私が礼を言うと亜莉子は早く帰ってきてね、と返し行き成りその場に体操座りをして頭を埋めた。


「亜莉子や、何をしてるんだい」

「一人じゃ怖いからこうしておこうと思って
私ね、これ以上気味の悪いモノ見たくないの

今のところは亜莉子が一番気味が悪いよ
さ、立って亜莉子。立って待っていようね」

「嫌。それに一番気味が悪いのはパフェ猫よ

「うん、チェシャ猫だね」


それからはどれだけ言っても亜莉子は頭を出そうとはしなかった。 いやいやをするたびに亜莉子の長い髪が一房、二房滑り落ちる。 でもね亜莉子や、考えてごらんよ。意気揚々と友達のところに戻ったら、 その友達が引きこもり状態になってる修羅場をさ。

ああ、亜莉子がこれ以上変な子になりませんように!と思いながら私は走りだした。
弱音は吐かないさ。ここで私が挫折したらあの体操座り組の仲間入りだからね。



















がらら、とすべりの悪い音を立てて開いた扉の先には数分前の侭の光景が残っていた。おかしいと思うだろうけど、 茜色の光に射されて、ひっそりとした教室に影を落としているチェシャ猫さんは本当に先刻の状態のままで 止っていたんだ。

まぁ、その不自然な光景は脳の片隅にでも置いておいて、私は一直線に机の方に進んでいく。 そこでよく見知った形のバッグを見つけた。あぁ良かった…鞄があった! でもどうやら亜莉子は鞄を持ってきていなかったみたいだ。どうせだから一緒に持って行こうと思ったんだけれどね。
そしてあわよくばいろいろ奢ってもらおうと思ったんだけれどね。

くっ付けたままだった机を元に戻す音が、ぎぃぎぃ響いた。

亜莉子の所に戻ったら先ず何をしよう。
出口の見えない廊下の出口を見つけるのが先かな。
此の際亜莉子と一緒に体育座りしても、いいね。
いや、でもちょっと、体育座りは…


「クロネコは」


亜莉子と私の2人、体育座りのまま廊下を移動する姿を想像して悪夢にうなされそうになった 私を、良い意味でも悪い意味でも引き止めてくれたのはその、中途な言いかけの一言だった。 振り返るとほんのついさっきまでドアの方を向いていたチェシャ猫さんがこっちを見ていた。 そして心なしか此方に近づいているような気もする。わ、びっくりしたなぁ。
いやはや、それでも笑ったままなんだねぇ。


「クロネコは」


チェシャ猫さんが同じ言葉を反芻する。私はつい立ち止まってその言葉の続きを促すように 上弦の口元をじっとみた。見れば見る程おっかなくも、面白くも見えてしまうからとても不思議だね。 チェシャ猫さんはもう一歩、そっと音も立てずに私に近づくとスッと手を差し出した。 そこで亜莉子が手を振り払った瞬間がフラッシュバックする。 実際ああやって手を払われると人だって傷つくのだから、猫だって傷つくはずさ。だから私は 振り払わず、その手を見つめていると、


「あ、シャーペン」


人の色をしていない手の平には私がさっきまで使っていたシャーペンが握られている。 どこかで落としただろうかな?変だな、と思って筆箱を見てみたら、本当にその一本だけが 抜け落ちてしまっていた。良い人…良い猫だね。そりゃあ、新聞紙を毎朝取って来る犬には 及ばないけれど、さ。


「ありがとう」

「クロネコはお礼を言わないよ」

「そうなのかい」

「そうだよ」

「それはすまないね」

「すまないねとも言わないよ」

「……今度から気をつけるよ」


亜莉子がアリスなのならば、やっぱり私は『クロネコ』という通称が彼の中に出来上がっているのかもしれない。 しかもお礼も言わないし謝罪もしないのが『クロネコ』らしい。どんなに失礼な猫なんだろう? お魚を咥えて走っていくことさえ運動の一環だと考えるような猫に違いない、きっとそうさ。

それにしてもまだチェシャ猫さんはにやぁぁぁぁっと笑ったままで私の前に立っている。 さっきまでは前に出ていた手も今は体の横に礼儀正しく戻っているし、長くって床を引き摺るような灰のローブも あんまりに長いから足元すら見えない。裸足で来ていたのなら、1階の職員玄関からスリッパを持ってこれるのに。 でも『裸足なんですか』?だなんて聞いたところでこの猫さんがまともな返事をくれそうには到底思えないね。


「チェシャ猫さん」

「クロネコは『さん』をつけないよ」

「チェシャ猫」

「なんだい」

「君は此処からどうやって出て行くんだい?」

「とび降りるんだよ」

「階段は使わないのかい?」

「使わないよ」


出て行くついでに何かヒントが欲しかったんだけど、その私の儚い願いも直ぐに水気の多いシャボン玉 みたいにして消えてしまった。もちろん、屋根まで飛ばずにね!飛び降りるだなんて、もしかしたらチェシャ猫(さんをつけるな と言われてしまった…いいのかな)には可能なハナシかも知れないけれど、私達一般人には堪ったもんじゃない。 第一、廊下にあるのは緊急避難用の降下スロープぐらいだよ。 ここにいた三年間、火災も無ければ事故も無かった。つまり出し方も知らないのだから、意味すらない。


「それじゃあ、チェシャ猫。亜莉子が待っているから。
もう夕も過ぎてしまう。君も家に帰ったほうが良いよ」


正直に言うと、こうしている間にも亜莉子が体育座りで座り込んでいるのかと思うと居ても立っても居られなくなった。 あの子は無駄に髪が長いからぱっと見、いじけた貞子みたいに見えるんだよね。これ以上 この学校内に亜莉子の武勇伝が出来上がってしまうのを阻止するために私は少し、自分を急かした。 そしてそのとき、手首に掛かった圧に体がカクンと引き止る。


「クロネコ」

「チェシャ猫?どうしたんだい」


そこで私の手を掴んでいたのは、にんまり笑顔のチェシャ猫。 最初と違って、振り解こうとすれば解けるぐらいの束縛だったから、何か抵抗する気もしない。 もしかしたら出口を教えてくれるのかもしれないから、少しだけ待ってみた。 廊下が長くなる時点で何かオカシイなぁとは思うけれど、なにか行動を起こさないと出て行くこともできないからね。 ホラ、アレだよ。FFZのヴィンセントを仲間にするときの面倒さと似ていると思えば、そんなに気に病まなくてもいい。

チェシャ猫が静かに口を開く。


「クロネコは僕と一緒にいるんだよ」


意味が解らなくて何度か瞬きをすると、チェシャ猫のほうも『なにか変なこと言った?』といわんばかりに 首をかしげてきた。変なこと…というか、妙な、へんちくりんな事を言ったような気がするんだけどね。 初対面の猫人間に一緒に居る、発言をされてしまっただなんて、釣り上げた魚から『君と僕は一緒に泳いでいるんだよ』といわれた 位にショッキングでセンセーショナルじゃないかい? それに、そんな怖い魚、どうやって夕飯にだしたら良いんだろう…?


「チェシャ猫。いいかい?私は亜莉子のところに戻るんだよ」

「アリスは後で僕のところに来るよ」

「じゃあそのときにまた会おうよ。それで万事解決だろう?」

「バンジ、カイケツ」

「うん」

「ウン」


途中から真似されているようで少しイラッと来たけれどそれはきっとチェシャ猫が『万事解決』という言葉を 知らなかったからだろうね。いや、そういうことにしよう。そこでどうして頷くところまで真似たのかは甚だ疑問だけど。 それでもなんとか納得してくれたようだから良かった。 手も離してもらったことだし、早速出て行こう。 これ以上待たせると本当に亜莉子がテレビから出て来かねない。


「そういえばチェシャ猫」

「なんだいクロネコ」

「君は猫だろう。猫の鳴き声は出さないのかい」

「出さないよ。でもクロネコは啼くよ

「字が違わないかい」

「字が違わなくないよ」


そして沈黙。再度掴まれる腕。

(言わなければ、よかったかな?)

私には解る。チェシャ猫は私が猫鳴きするのを待っている。 そもそもあの真っ暗のフードの中には目なんてものは無いような気がするけれど、 にやぁぁぁぁぁ(省略)ぁぁぁとした口元で解る。こんな事になるのなら最初から 全否定して置けばよかったかな?私はクロネコでもないしお前は猫 でなく変質者だしシロウサギなんて小学校の飼育舎にしか居ないんだよ バーッカ!トイレに嵌ってろ!とでも言って置けばよかったかな?


「じゃあチェシャ猫が鳴いてごらんよ」

「僕は鳴かないよ、鳴くのはクロネコだよ」

「チェシャ猫が、」

「クロネコだよ」

「二度も言わなくっても良いと思うんだ」

「クロネコだよ」


まさかの三度!
(そういえばポケモンにサンドってのが居たなぁ)
(現実逃避?ふふ、何だろうねぇそれ)

私の貧相な頭の中に小さなアナウンスが流れ出す。

『○○区在住のさん。お連れの亜莉子ちゃんが貞子になって居ります。
迷子預かりセンターまで貞…亜莉子ちゃんを迎えに来てください』

此の際これは仕方のないことで、神が私に二者択一の難問を出しているんだと思おう。 あなたはプライドと可愛い亜莉子ちゃんとでは一体どちらを取るんですか?おや、プライドを取ると? それならば亜莉子ちゃんが一生あの廊下に残されて良いのですね?と…


「………にゃあ」


そんなの良いわけがないでしょう、神様。
私は息を吐いて、その吐く勢いに任せて声に出した。
恐らくそのときの私は随分と無表情だったんじゃないかな。

私の一世一代のプライドのポイ捨てに チェシャ猫は満足したのか、不快なのか、全く推し量ることも出来やしない。 全面積の50%がフードになってる顔の上にいつも通りの笑顔を浮べたままで じっとしていた。僅かに聞こえる『ごろごろ』という音は、あの、猫が心地良い 時にもらす音なのかな。力なく離してもらった手を、体の温度に慣らしながら 様子を見ていると…灰色の猫の声が、僅かに耳に入った。


「…萌え」










□□□□










そこから私は多分己を忘れたんだと思う。気がつけばもう、亜莉子の前に居た。
なにかとてつもなく恐ろしい呪いの様な言葉が聞こえた気がして背筋が凍ったのはまぁ、覚えているよ。 そのあと凄まじいスピードで教室を出たのも少しだけ覚えている。そのあと廊下を走ったのか、歩いたのか、 はたまた這いずったのかは全く覚えてないんだ。人間って生命の危機に陥ると何だって出来るんだねアハハ!

亜莉子は私が帰ってくる前に、もう体育座りを止めて立ち上がっていた。
よかった。更生したんだね、亜莉子や。


「ただいま亜莉子」

「オカエリなさい。どうだった?何もなかった?」

「あの猫に近づくのはやめようね、亜莉子。
あれは猫じゃない変質者だ

「私もそう思っていたの」(ニコ)


亜莉子は可愛らしく笑いながら辛辣な台詞を吐いて、良く頑張りました、と私の頭を撫でてくれた。 この年で頭をナデナデなんていうのはそんなに嬉しいものではないけれど、今回は頑張った分なんだか嬉しいな。 だから有難う、と言おうとして亜莉子のほうを向くと亜莉子は廊下の向こう側を見ながら目を見開いていた。 私を撫でる手に力が入って痛い。ああ亜莉子や毛が抜けてしまうよ。


…あそこ」

「どうしたんだい亜莉子―――」














白い(一部赤い)人型ウサギちゃんが教室の扉の隙間からこちらを見ています。
さてどうしますか?


1:行ってあげる
2:行ってみる
3:まぁ行ってみるか
4:行く


つまり逃げられないって事、だよね。