ふと目を開けると部屋の中には優しい茜陽が差し込んでいた。
でも私は確か、亜莉子と雪乃と一緒に自習室で勉強をしていたはず。
覚醒しない頭で目を擦って顔を上げてみれば視界の端、教室の出口の方に人影。
「!目が覚めたの?助けて!此処から逃げて!
あ、やっぱり助けて!でも逃げて!」
目が覚めたばかりの私に無茶な命令を重ねる(逃げるか助けるか、どっち?)
亜莉子と……灰色の、布?人?不審者?どれにせよあまり友好的ではなさそうだね!
全く、季節の変わり目は本当に気がイカレタ奴等ばかりで困るなぁ。
01 歪みの国に迷い込んで
半ばヒステリックになった亜莉子が教室後ろの出口のドアに背中をぴったりと密着させて
尻餅を着いているのと、
その正面に灰色の布の人がゼロ距離で迫っている状態を、私は傍観していた。
だって、どうしようもないだろう。行き成りの助けて、逃げて、助けて、逃げて発言には
いくら狡賢い私でも着いていきようが無いからね!それで結局、達磨さんが転んだの様に
静止することにした。でもこれはこれで楽しい。チラチラ亜莉子が此方を向く度にぴったりと
止って見せるんだ。瞬きだって一緒にさ。あ、駄目だクシャミが出る。
「ックシュ…寒、もう一回眠ろうかな
今度はもっと良い夢が見れそうな気がする」
「!ってば!」
もう一度惰眠を貪ろうとしていた私に向かって助けを求めるように亜莉子が叫んだ。
その切迫した声が覚醒しかけの頭にゆっくりと漂う思考のモヤを払っていく。
そうか、今は緊急事態なんだね!亜莉子が窮地に追いやられているんだ。
急に体の全機能が動くようになったみたいに、私はイスから勢い良く立ち上がる。
そのときイスが派手な音を立てて倒れたけど仕方が無い。
だって緊急事態なんだもの。押さない走らない喋らないが鉄則なのさ。
そこで雪乃が居ないことに気付いたけれど、今は亜莉子が大変だ。
机やらイスやらの間を縫って近づきながら亜莉子に話しかけると、
亜莉子は正面に居る灰色の布の人と私を交互に見ながら恐る恐る返事を返してくれた。
あの様子だと顔が見えているんだろうね。
どんな顔なんだろう。日本じゃ見たことの無いようなあの服装が私服だって言うなら、
随分と違う文化の人に違いない。しかし、可哀想に亜莉子。あんなに怯えてしまって!
「亜莉子、平気かい?大丈夫かい?痛くない?」
「ええ、痛くはないけど、大丈夫だったらこんな状態じゃないと思うわ」
「それもそうだね!」
「…楽しんでない?」
「あ、そうだった…コホン。
ああ亜莉子や、愛しの亜莉子や
待ってておくれ、今助けるからね!」
「聞こえてるわよ今の」
「おやおや、これは失敬!」
嗚呼よかった、いつもの黒い亜莉子だ。今の地から這い出るような声は亜莉子だ。
亜莉子のロートーンなツッコミを聞いたとき、私は灰色の布ぬn…ああ、噛んだ。
灰色の布の人の直ぐ後ろに来ていた。意外に背が高いね。あと、なんだか少し獣臭い。
猫とか犬とか、そういう感じのケモノに顔をダイヴさせたときの残り香の様な香りが
ふわりと漂う。
手が届く距離まで亜莉子に近づくと、亜莉子は安心したような微妙な笑顔を浮べて私を見た。
助けてやれると言うわけではないけれど、コレであの子が落ち着くと言うのならまぁ、
良しとしようかな。亜莉子は私の名を小さく呼びながら手を伸ばしてきた。
指先は小さく震えていた。随分と怖い体験をしたんだろうね。
だから私はその手をとろうと手を伸ばす…勿論灰色の布の人越しに。
掠れた声で亜莉子がもう一度、私の名を呼んだ。
「……私、」
「はいないよ」
唐突だった。
その手を掴むか掴まないかの所で、私の手に力強く第三者の手がしっかとしがみ付いたんだ。
亜莉子が息を呑んだのがはっきりと聞こえる。私の手に絡みついた手、
つまり灰色の布の人の手は随分と滑らかで、
爪はとがっていて、そしてどことなく土気に濁って、人の色をしていなかった。
亜莉子も私も目を見張った。
虫でも潰すかのようにさらっと私を全否定した声はゆったりとした低い声だった。
なんと、この不審者は男性だったんだ!
亜莉子はその男性に対する警戒心を最高レベルまで引き上げたような表情で言う。
「いいえ、は此処に居るわ」
「はいないよ」
「チェシャネコさん、貴方が今掴んでいるのがなの」
「これはではないよ」
(『これ』って…随分な物言いじゃないか、チ、チェチャ、チャヒェ…ネコさんとやら!)
亜莉子が勇気を出して言っても、同じような答えが還ってくるばかり。
チェシャネコと呼ばれた灰色フードの貴方のお口はテープレコーダーか何かなのかな?
それならば私がもっとまともな会話を吹き込んであげるよ、さぁ、録音ボタンを押おし!
押さないのなら、何とか努力して亜莉子にちゃんとした返事をしておあげ。
私は灰色の不審者に手を掴まれたままで、亜莉子の方を見つめていた。
手から伝わってくるのは暖かさ。なんだ、ちゃんと暖かいじゃないか!
こういう時に生きているんだなぁ、と思うんだ。血の脈動、皮膚の弾力、
生きているものには当然に備わっているそれが、たまに物凄く愛しい様な錯覚に陥る。
亜莉子や雪乃には散々変だと言われたけれど、きっとソレが人間愛というものさ。
「さぁアリス」
チェシャネコさん(今度は言えた)とやらは依然として私の手を掴んだまま、
もう片方の手を亜莉子に差し出した。
『アリス』というのは亜莉子のコトを言っているんだろうか?確かに語呂は似ているし発音も
似てないとはいえないけれど、子とスじゃあ随分と違うンじゃないかな。
やっとのコトで立ち上がったばかりの亜莉子が、
またチェシャネコさんの行動に怯えてドアに背をぶつけ、背後のドアがガタガタと鳴った。
「わ、私はアリスじゃないんですってば」
「きみはアリスだよ。早くシロウサギを追いかけよう」
その返答を聞くや否や、亜莉子は困ったような溜息を深々とつく。
きっと私が目覚める前もこんな会話が続いていたに違いない。
そのとき、困って泳ぐ亜莉子の目線がチェシャ猫さんの顔の辺りに行ったまま、そこで停滞した。
因みに私のアングルだとチェシャネコさんの灰色の背だけが見えていて、
どんな表情で居るのか、どんな人なのかなんていう
ことは全くわからないけれど、これだけははっきりとしている。チェシャネコさんは
マトモな理由で今、学校にいるんじゃない。それから、何か感じるんだ。
なにか、ここはいつもの学校で無いような…
ぱしん
小さな音が聞こえたと思えば丁度、亜莉子がチェシャネコさんの手を払ったところのようだった。
払われたチェシャネコさんの手がだらりと元の場所にもどる。
思いに沈みかけていた私はその音と動きによって現実に引き戻される。
そして亜莉子は続けざまに私の手を取り、引っ張った。
チェシャネコさんよりも亜莉子の手のほうがずっと暖かい。
チェシャネコさんの手は今更だけれどひんやりとしていて、それほど暖かい物ではなかった。
それはまぁ、血色も悪いようだから仕方の無いことかもしれないね。
亜莉子が全身全霊を持って私の腕を引く。だけれど微動だにしない。それで痛いのは?
ええ、そう、私の腕の皮膚だけなんだ。亜莉子や、優しい亜莉子や、
居眠りしてて行き成り『エキノコックス…』と呟いた亜莉子や、気付いておくれ!
今の私、とっても痛い思いをしているんだよ。それでも亜莉子は必死に私の腕をチェシャネコさんから
開放せんと奮闘している。嗚呼、君の愛が痛い!
引っ張っても無駄だと解ったのか、亜莉子は
チェシャネコさんに懇願し始めた。
しかし手は離さない御様子だね!私の手は雑巾のようだよ、亜莉子。
「を離してください!痛がってる!」(ぎりぎりぎり)
「ああとても痛いよ亜莉子ちゃん」(顔面蒼白)
「はいないよ。此処に居るのは僕とアリスと」
小さな衣擦れの音と一緒に、目線の先の首が廻った。
次第にフードの中が明らかになっていく。
「クロネコだけさ」
三日月の口がにぃぃと深い笑みを刻んだ。
灰色のフードの中に見える顔のパーツは一つ一つがいちいち印象的だった。
女性のようにコロッとして見栄えのする輪郭に乗っているのは
鼻と口と、目――なんだろうけど、生憎鼻と口だけしか見ることは出来ないみたいだ。
すらりと通った鼻筋の下には、私には到底真似できないような微笑が称えられていた。
ねぇ、わかるかい?小さい頃に聞いた口裂け女が居るのなら、きっとこんな感じに違いないよ!
ああでも、口裂け女にはこんなにぞぉっとする程鋭い歯なんて無かったかな?
ギラギラと茜陽を受け僅かに橙に染んで肉食を誇張する歯が、言葉を発するために
両極端に分かれたり、仲良く並んだりする。
鼻と口がある以外殆ど正体不明のチェシャネコさんの顔が、私を品定めするようにして
コタリと傾けられる。もちろんその間も彼はにぃぃぃ、っと微笑んでいるんだ。
きっと亜莉子なら『赤頭巾ちゃんを食べてしまうような』と言い表すだろうね。
まぁ今回は狼でなく大きな猫のようだけれど……そうか、だからネコ!チェシャ猫という
のが正式名称なのだね、彼は。
私でなく亜莉子が真っ先に声をだした。
それと同時に私の手を握った手に力が入る。
「…クロネコ?」
「そう。クロネコだよ」
「い、い――いい加減なことを言わないでください!」
今日一番の大声で亜莉子は叫んだ。
声が反響して、じんわりと消えていった。
その声の大きさには私の肩さえ跳ね上がったよ。
一体何か彼女の癇に障ったのかは私には到底わからなかったけれど、
次の瞬間亜莉子は私の手をチェシャ猫さんから開放し力の限り私を引っ張っていた。
ああ、亜莉子や、亜莉子。たまに本性の出る…いや、コホン、性格の変わる亜莉子や!
本当に君の火事場の馬鹿力には驚くばかりだよ。
大きな猫を放っておいて、私達は廊下に躍り出た。
「な、何コレ…」
「…おやまぁ、随分と手の込んだ悪戯だ」
そして、絶句。
驚いて力の抜けた亜莉子の手から、私の手が開放された。
なんか変色してるよ、私の手。チェシャ猫さんみたいだよ。
でもそんなこと、この現状に比べたらどうだってことない…みたいだ、ね。